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"fight"

 2023年2月10日

 ライブの帰り道.

 雨の寒い夜だった.満員電車は吐息で窓が曇っている.ドア付近に立って,ぼんやりと外を眺めていた.曇りのせいで,街が霧に包まれているようだった.窓の表面をゆっくりなでると,ぬるい層が溶けていき,しんと冷たい層がむき出しになる.指先から熱が吸われる.湿度の高い空気のせいで,指がぴたりと窓にくっついてしまう.ふと指を離す.電車が横に流していく街の光が,指の跡を通って,形を得ていく.

 街の光のたもとには何かをしている人がいる.そのことがなんだかすごく不思議なことのように思えた.電車内を見渡してみる.沢山の人がいるけれど,各々が意識を持っている.各々が何か思うことがあって,決まった道を歩いて,自分の人生を生きている.当たり前なことなのに,この感覚を自分の中で持て余していた.

 ふと横の高校生を見た.スマートフォンと耳をつなぐイヤホンの白さが目立っていた.何か考えているようで,窓の外を見るというよりか,目がたまたま窓の外へ向いているような感じだった.

 彼女はおもむろに曇った窓を指で触った.そしてゆっくり動かしていく."fight".そう書いていた.

 揺れる車内と水分の多い空気.顔をやや斜めに傾けて,物憂げな表情を浮かべながら,何かの光を見出そうとする彼女.電車がネオン街を通過するたび,光に照らされて浮かび上がる"fight".

 カロリーメイトのCMを思い出した.

 「ああ,そうか,受験生なのか」と気づき,余計にカロリーメイトのCMを思い出した.

 一人でへへっと笑ってしまった.


 でも,誰にも何にも囚われることなく,自分を"fight"と鼓舞できる人で僕はありたいと思った.正直,今日のライブでも,こうすればよかった,ああすればよかったと思って凹んでいる.というかほぼ毎回のライブで凹んでいる.これは敵わないなぁと思ってしまう.それで,周りの芸人さんが気になってしまって,空回りしたりもする.でも,お笑いが好きで,上手になりたくて,だから必死でいることはやめないように,生きたいと思っている.これはお笑いに限らず,僕の生き方としてそうありたいとも思っている.だから,この受験生の姿が美しいと思った.きっと彼女も必死に自分と向き合っているのだなと思った.


 中央線.雨降る夜.自分の手のひらをゆっくり開いて,閉じて,指を動かす.この思いを忘れないように,一つ一つ感情を覚えていくイメージで.

 ただ,体温を取り戻した指は,想像以上にくねくね動いて,びっくりした.

 そんな日だった.


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