見出し画像

SNSには「世論」があって、そこには誰もいない

やめればいいのに、気がついたらツイッターのアプリを開いてしまう。
炎上している一連の流れを追いかけて、自分なりに意見をもって、他の意見に頷いたり眉をひそめながら、アプリを閉じる頃にはすべて忘れている。

いつの間にか、そこに書かれている意見を「世論」なのだと信じ込んでいた自分に気がついたのはふとした瞬間だった。

普段からあまりSNSを見ない(と私が勝手に思っている)方と話していたときだった。話の流れで、私がわかったような顔で「私たち主婦は肩身が狭いですもんね」というような話をしたら、彼女はきょとんとした顔で
「そんなこと、誰に言われたの?」
と言った。

恥ずかしかった。
思い返してみれば、私は周囲から専業主婦であることを責められたことは一度もない。

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

太宰治『人間失格』

『人間失格』の有名な言葉を思い出す。ストーリーの中では、偉そうに世論を語る目の前の個人こそが「世間」ではないか、と続く。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

太宰治『人間失格』

私の場合はもっと酷かった。なにせインターネット上の、会ったことすらない個人を「世間」だと思い込んでいたのだから。


SNSには本当に多くの人がいて、様々な意見が行き交い、時として同調して大きくなったものがムーブメントを起こす。文面の向こう側にいるのは間違いなく生身の人間だ。

だけど、同じくらいに空虚だと感じる時がある。私はそこにいて、そこにいない。今わたしがいるのは、見飽きたリビングのソファーの上なのだ。

誰もがタイムライン上にいて、そこには誰もいない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?