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犬がいる生活で心が優しくなる

あーちゃんが居た頃。というより
ずっと犬と生活していた頃は
家の中にずっと小さな子どもがいるような
感覚だった。

私はずっとずっと犬と一緒に生活をしてきたのだけど
2022年11月にあーちゃんが亡くなってしまってから
うちには小さな子どもがいなくなった。

小さな子どもがいるということは
家族がその子中心に回っていて
その子が寂しくないように
不安にならないように
温かく包み込んでいた。
あーちゃんはちょっと頑固で
犬見知りでだけど
人間は大好きだった。

頑固なあーちゃんを母は良く
「かいじゅう」と呼んでいた。
小さな可愛いかいじゅうだった。
小さな子どもが居る家族は
みんな優しい気持ちになったものだ。
これ食べる?
これ好き?
寒くない?
暑い時は、タオルに保冷剤を巻いたり
してたっけ。
自分のこと人間だって思ってたかもしれない。
言葉も少し理解してたっけ。

可愛い。
御利口
おみず
ごはん。
パン。
梨・・
自分の名前。
家族の呼び名。
お散歩のこと。

あーちゃんは、知らないところに行くことを
とっても嫌がった。
嫌がったけど桜の咲くときは
近所の大きな公園に連れて行ったけど
自転車から降ろすとすぐに
出口を探して帰ろうとしていたっけ。
だから、ずっとずっとうちの家族は
どこにも旅行へは行っていない。
行こうとも思ってなかったんじゃないかな。

出張で
綺麗な富士山を見るたびに
「あーちゃんがこんな富士山みたら
どう思うかな」とか
「こんなお城みたらびっくりするかな」
でもきっと、お出かけは嫌いだから
「早く帰りたい」って思うかな・・
そんなことをフェイスブックに書いたら
「あーちゃんはきっと
アメリアさんと一緒にその景色を見てるはずだよ」
と言われて、あ、そっかー。
と思ったりした。
あーちゃん。たくさんの景色見たね。

1年と少し前あーちゃんが危篤だという連絡は
忘れもしない羽田空港の南ウイングの
搭乗口にいた。
鹿児島出張だった。

恐らく私が飛行機に搭乗するころは
虹の橋を渡ったと思う。
その瞬間からあーちゃんは私と同じ景色を
観るようになったかもしれない。

さて、話を戻すけれど
その家族の中に小さな子どものような
存在がいると家族が優しくなる気がする。

小さな命をみんなで守ろうとするからだ。

もう私のそばには小さな子どものような
存在はない。
だからなんかちょっと自分が
その子供に対してささげていた
小さな愛みたいなのがもうないなぁって思う。
私にとって必要な要素だったのに。

いつだったか
うどん屋さんの前にシーズーが繋がれて
飼い主を待っていて、すぐに
飼い主さんのご夫婦が出てきて
「シーズー先日病気で亡くしてしまったんです」
というと
「僕たちは、シーズーが大好きでずっと
飼っているんだけど、シーズーが亡くなったら
3日も空けずにシーズーを飼うことにしてるんだよ」
と話してたっけなあ。
気持ちわかる。
新しい子を迎えることは大賛成だけど
私はしばらく心の中に
あーちゃんと先代のぼびくんと
過ごしたいと思っている。


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