見出し画像

自分という存在は借りもの

先日も書いたけれども
作家の黒澤一樹さん(雲黒斎さん)
が鬱というタイトルのブログ
「僕たちの存在は、何者でもありません。
なんのラベルもついていない、ピュアな存在です。
しかし、一歩社会に入ると、そこには「役割」というものが見えてきます。」と書いています。
この話、案外聞くと思います。

本来は何モノでもないのに
「言葉を変えると”あなたが置かれている状況を瞬時に判断し、的確な役割として、それを全うしなさい”という教えです。素の気質がどんなものかなんて関係ない。あなたは、あなたが求められている役割として振る舞いなさい、周囲の期待に応えなさいと。そりゃあ、そんなのまともに聞いてたら、誰だっておかしくなるよ。」→鬱

あーそうだった。わたしはスピリチュアル辞めたのは
わたしが知りたかった世界が無であったから。
そうだった。私自身ですら無であった。
あーーーそこだ。見落としてた。

そして、なんともまぁタイミングよく
ミユさんもNOTEで
楽しめばいい、なんでもいいから

ミユさんのお嬢さんの話。
「なんでこの身体があって、なんで動かせて、なんでこのmondo(地球や世界を指す言葉)があるのかわかんないの」

自分が何者でもないってことの具体例だよね。
ミユさんのお嬢さんが
「だから、mondo(地球)を見ると変な感じがするんだ。ぜんぶゲームだから。きーちゃんも、きーちゃんが生きてるのも、mondoもぜんぶゲームだよ。そうしたら、あれ??宇宙も???宇宙もだね!すごい、すごい大きなゲームだよ、本当にすごい大きいよ、すごいよ」

わたしは自分で真理が”無”だったわかりながら
なぜか一番大事な自分がそうでなかったのだ。


その感覚をどう表現したらいいのかと思ったら

シャツを着ようとするんだけど、なんだか知らないけど
袖がつかかって腕が通らないような
そんなジレンマを感じるんです。

それってのが、いわゆる・・
あなたが求められている役割として振る舞いなさい、周囲の期待に応えなさいというジレンマ。

あなたの求めていた真理=無(おまえもなっ)

            泣いてる場合じゃない。

もっとも、この世はバーチャルなんだよ!って思えれば
良いけれども、なかなかそうも思えないじゃないですか。
ミユさんのお嬢さんのように無邪気に手放せない。
バーチャルだったら、楽しめばいいだけじゃんなんて
思いたいけど、なかなか思えないのは歳のせいでしょうか?(笑
無なんだよなぁって思ったらそもそも悩まない。
悩む必要がない。
悩み無用なんだ。もしかしたら好きで悩んでいたら相当な変態だ。


でも、私は自分が求めてた真理が無であるというのを
知ってしまった以上、否定はできないし
結局おまけに
「そもそもあんたも無なんだよ。なぜわからんのかい?
いっぺん死んで来いっ」

と言われている気さえします。

無という意識に対して
無=THE END
という考え方と
無=REBORN
という考え方もあると思われます。

わたしは今どっちかっていうと
「ってことは、おしまいっ」
と思ってるので、なんもなしって
目の前でシャッターガラガラになっている。

無ってことは、新たな始まりなんだよベイベー
と、ファンキーに思えれば良いのに
お酒も飲めないってのにどうしろってんだ。

目の前のドラマを
「ちっ。なんかこうチマチマしてて
なんだかなぁ。登場人物も
なんかこうパッとしない。」

しかし他人のドラマを見ると
「なんだこの展開はワンダホー」
と思えたりもする。

それも自分が勝手にそう創っているだけにすぎない。

そうはいっても日常は、例えば仕事で嫌なことがあったり
仕事辞めてホッとしたり
良い人もそうじゃない人も本当に
上手い事でて来ては私を喜ばせたり
悲しませたりしてくれるわけ・・

でも・・それもそういう役目の人が
出て来てるだけなんだなと。
連続ドラマなんだよなと。

で・・1つだけ言えるのは
あのね、わたしは
仕事でメッセージをお伝えしてた時に
これだけはほんとだなって思ってたのが
1つだけあって。

大元が宇宙であろうと
先祖であろうと
正直何でもいいんだけど。

でもね、絶対的にあるのは
上手く言えないんだけど
肯定してくれる何か・・・・
が絶対的にあるってこと。

ここは否定ではなく
肯定してくれる何かがあるんです。

これなんで肯定なんだって思ったら
やっぱり、無なんだからなんです。
すんごい矛盾してるんだけど。
(自分で言ってることはよくわかってる)
無から在るを見いだせるんじゃないかと
思えるんです。

てか、そういう世界しかないんだよね。

↑ここまで来るのに3日位掛かったよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?