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煽動への欲求

科学は万能ではない。

科学とは物事を捉えるひとつの体系だ。有史以来の蓄積によって精度高く合意が取られている無二の知識と方法の集積である。およそあらゆる問題は、科学の方法で説明し、ある種の正解を見出すことが出来る。けれど、それは唯一解ではない。

科学的であることに囚われないように、強く意識していた。科学的に正しいからといって、現状最適なのかは繰り返し考えるようにしていた。なぜなら、宗教にアレルギーを持ったこの国では「科学的である」ということが、人を説得するための非常に安易な方法だったからだ。科学の方法だけではなく、不思議な業や不都合な事態も併せ見ることは、真実を、辿り着くべき答えを、手にするためには必要なことだと思っていた。

気付けばインターネットが終わっていた。

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かつてのTwitterは、より言論の場だった気がする。言論の場を目指そうとしていた。言うなれば、Twitter自体が一つの巨大なサロンだった。ある種の価値観のぶつかり合い、言論(未満)のやり取り。言論と言うには非常にチープだが、正しく言論を知っているがゆえに、「言論未満」という意識がしっかりあったように思う。そのチープさ、質の低さを自虐的に嘆いたり、改善を試みたり、破滅的に改善を阻害したりしていた記憶がある。

今はまるでそうではない。3.11によって、SNS=インフラという認識になった。大衆が押し寄せて、オタクの振る舞いを身に着けながら、順応していった。その潮目を私はまるで理解できていなかった。そして今回の感染症で、いよいよ止めが刺された。今やインターネット= SNSは大衆と化した。

大衆と化したインターネットで、専門家は隅へと追いやられていった。気付けば、あらゆる言説はただの権威付けに成り下がっていた。科学を学んでいない人ほど、「科学的」を権威付けに用いる。学問を修めていない人ほど、「学問的」を権威付けに用いる。今では権威を用いたビジネスマンが跋扈している。彼らが言う「科学」であったり「学問」であったりというのは、あくまでビジネスのツール。数字を用いれば人を説得できるという至極安っぽい価値観のもとにある。その言説のチープさによって、今や本来の「科学」や「学問」の権威すら、衰えてしまった。

本当にひどい例は過去いくつもあった。偽相関でしかないものをイデオロギーに基づいて切り取り、あたかも真実かのようにバラまく自称社会学者などは本当に酷かった。あれ程の邪悪を私はあまり多く知らない。

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科学が衰え、信仰が衰えた今、「どれだけ大衆を煽動できたか」以外に語るべき指標がなくなった。それは本来「エンタメコンテンツ」で行われるべきハッキングなのだが、真正であるかが問われて然るべき言説さえも、大衆に迎合することでのみ語られる。

今、人々は刺激だけを求めている。喜怒哀楽の感動を刺激することだけが求められている。「いかに刺激的であるか?」によってエンターテインメントと同じように興味を喚起して民意を煽動するのはすごく惹かれてしまうけれど、これに如何に抗うかが問われているのではないか。

かつて「宗教」へのアレルギーから「科学」へと走った人々は、これが去った後、感動と熱狂の物語に恋焦がれている。

感動喚起のメカニズムがコーディングされている。ハックされている。まさしく伊藤計劃『ハーモニー』の世界。けれどもそれは、必ずしも悪いことではない。けれどもそれは、必ずしも真正であることを意味しない。

煽動への欲求に負けずに、真理への道を歩むことを心に留めたい。

the third is love

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