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世界との対話

仕事、家庭、SNS、その他。私たちは、様々な【社会】に属している。どれだけ逃れてもいずれかには囚われ続けてしまう。Sound Horizon『檻の中の花』に描かれたように。

かつては、所与の【社会】に属して庇護される存在から、己の手で【社会】を選び取ることが、成人へのイニシエーションだった。三原順『はみだしっ子』は、通り一遍の「親」ではなく、自分を本当に愛してくれる「恋人」を探す物語。独立の物語は、けれど、根底には自分たちは「属して庇護される」存在であることを前提としていたように思う。物語開始時には10歳だったサーザは、放浪の4年を経て、そもそも所属することや庇護されることを拒絶するに至る。それは正しく思春期の成長痛なのだと思う。

今起きているのは、与えられた【社会】を受け入れ、そこに最適化することを「成人」と謳う動きだ。マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のリバイバル。主体的に選び取るのではなく、既に選ばれているのだという意識。与えられた天職を天命とし、それに尽くすことが救いの道だと説く。【社会】と世界とを線形に結ぶ考えが、あらゆる界隈に一般化しているようだ。松本零士『銀河鉄道999』が風刺したように、優れた機械の体を与えられることで、感性までも機械に順応していく。効率化され、【社会】のための体になる。

確かに今、【社会】は非常に強くなっている。かつては学生から社会人に、家庭人にと、ステータスが変わると、それ以外の【社会】はほとんど失われてしまっていた。けれど今ではSNS上で【社会】はいつまでも残り続けてしまう。意図的に【社会】を断ち切らない限り。けれど、そのことを意識している人は少ない。

私はどうしても、そんな【社会】への敗北宣言を受け入れられなくて、この半年はできるだけ、重力に抗おうとしていた。できるだけストレートな正解を避けて、冗長化して、ダラダラと無為なことをして。「抗う」こともまた「囚われ」の一形態に過ぎないのだけれど、そうせざるを得なかった。しかし、同じように【社会】に抗うためだけに反逆を気取る人たちを見ていて、そのあまりの醜悪さに、改めようと思っている。

【社会】と向き合うことを避けるのでも、囚われるのでもなく、適切な距離の保ち方を考えたい。

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遠い昔、【社会】との距離を保つために発明されたのが「神」であり「宗教」だった。自分の目の前のこと、家族のため、友人のため、共同体のため、国のため、世のため人のため、限りなく広めていった先にあるのが「神の御心に適っているか」という問いだ。どんな【社会】よりも上にいる、超越的な存在との対話で、より正しい判断が出来うる。彼が「第三者」と呼んだものと親しい。

けれど、宗教も結局は【社会】のひとつとなってしまうことを歴史が証明している、包含関係がひとつ膨らんだだけで、根本的な解決にはならない。私達が今、本当に必要としているのは、仰ぎ見る神ではなくて、対等に語り合うべき世界だ。世界と対等に語り合うこと。世界は私に何をしてくれる? そして、私は世界に何ができる?

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「世界と対等である」という取り留めなさ、目を覆いたくなるほどのプリミティブなお話。それでも私たちは、その愚かしさを自覚した上で、毎日世界と挨拶をするのを避けるべきではない。

世界が私にくれたものはなんだろう。例えば顔を上げる。ビルの隙間にのぞく空の青。雲の切れ間から差した光で、路端の緑は見る間に色を変える。冷たくも穏やかな風に揺れる草花。温くなったコーヒー。連れ立って歩く壮年の夫婦。

私は誰? 与えられた役割は? 今日は何の日? 今日はどうすれば良い日になる? そのために私は何処で、何をする? 些末な日常へと、私自身の解像度を上げていく。世界から【社会】へ降りていく。

私は世界に与えられているだろうか? 世界に奪われているだろうか? もし世界に与えられているならば、世界に何を与えることで、対等でいられるだろうか? もし世界に奪われているならば、何を取り返すことで、世界と渡り合うことができるだろうか?

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この世は【社会】に満ちている。重力に囚われて、地に足がついてしまう。一日の始まりと終わり、夢との間で、世界と語り合うこと。自分を取り戻すことが、愚かしくも唯一の答えなのではないか。

セカイ系とは、この【社会】過多な現実へのカウンターだった。当時「【社会】と向き合え」と息巻いていた人々は、今この現実を見て、何を口にしているのだろう。いまだに同じことを言っているのだとしたら、とても哀しいことではないか。

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