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ご長寿から学ぶ人生を一言で表現する生き方

中国のご長寿に、長生きの秘訣を聞いてみるという番組を見ていた時のこと。
朝から公園で運動をするご長寿達は、驚くほどの身体能力。
それぞれ本人なりに、「良い」と思うことを楽しんで、自信を持ってやっている。かなり刺激的な運動(?)もあった。

そんな中、もうすぐ100歳という女性に、長生きの秘訣を尋ねた。食生活か、運動か。とても100歳には見えぬその風貌と動きに、若干身を乗り出してその答えを待った。
一瞬の間をあけてのその答えは予想外のもので、
「死ねないだけだよー!ガハハハ〜!!!」
とだけ、高らかに笑った。
あまりに豪快に笑うその姿に、こちらもつられて笑っていた。

きっと、この100年、ありとあらゆるものを見てきたことだろう。大切なご家族を亡くされたり、大事なものを失ったり、辛い現実と向き合ってきたはず。
今の時代と違い、何も無いところからの激動の時代を渡り歩いてこられた。
そんな女性が、秘訣も何も無い。ただ死ねないだけだと言う。

視線の動きの先にふと見せる何かが、懸命に生きた、それしかできなかった、と物語っているように感じさせた。今インタビューされているこの状況も含め、全てを流れに任せてきたかのように、最後にガハハハと豪快に笑ってみせる。

別の国の長寿男性も、同じような事を言っている方がいた。
その男性は、しみじみと「死ねないだけ。」と言った。あの女性と似たようなことを感じてこられたのだろう、と想像する。

生存したことに意味を求め、生きることに意義を見出し、存在価値を示そうとしてしまいがちだが、これらご長寿の方の「死ねないだけ」という言葉からは、そんなことを超越した〈人間道〉みたいなものを読み取った。

ガハハハと大笑いする姿からは、自分の力ではどうしょうもない事も多いんだ。
しみじみとした姿からは、求めすぎたって仕方が無い、なる様にしかならないんだから。
だからこそ、懸命に生きたのだ、とそう言われているようだった。

子供の頃から紐解くと、関心を持つ世界って案外狭いなと感じる。
若年期は、“いかに世界を広げるか”に必死で、興味の薄い事にまで顔を突っ込むものの、やっぱり駄目で、飽きっぽいと言われた。
そもそも苦手な事にまで手を出して、案の定うまくいかず、出来ないということで卑下した。

興味のあること、出来ること、好きなことを伸ばさないと、自分の中で【ダメな自分】の印象が強く残ってしまう。
自分はダメな子、と自分で自分の能力に蓋をするようになっていく。そんな積み重ねが【自信を持てない自分】を作り出す。

好きなもの、興味のある事がわかっている人はいいけれど、そもそも、それすら分からないこともある。だから、何となく上手くいくな、時間を忘れて取り組めるな、結構好きかも、子供の頃好きだったな、なんて思うことに触れてみる。
あのご長寿の様に、目の前のことにただ向き合って過ごしてみる。

得意も不得意も、出来るも出来ないもなく、やるからやる、やらなくてはいけないからやる、それでも駄目なら、やっぱり向いてないだけ。くらいの気持ちで毎日を過ごしてみるのはどうだろう。
可能性の芽を摘むことなく、うっかり新たな自分を発見出来るかもしれない。

頭で考えすぎる日常。
体を動かし、周りの為に頭を使い、忙しくしている。何をするでなくても、少しでも今いる空間が、朗らかで、希望に満ちて、前を向いて歩いていける道であるために、忙しくしている。

そんなことの積み重ねの末に、あのご長寿達のように多くを語らず、一言で人生を言い表せるくらい深みのある人間になっていられたら、と思うのです。

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