太宰治が嫌いな読書家見習いの話

※「それは好きなのでは」と笑うための記事


本当に太宰の作品は嫌になるな。
心の中でうんざり溜息を吐きながら、1週間前にコンビニで買った『太宰治ベスト集』を閉じ、机の脇のスーツケースの上に置いた。
何故こんなに憂鬱な沼に浸らなければ純文学ってやつは楽しめないのだろうか。もっと正直に楽しいことしようぜ。
スマホのメモ帳を開き、次はどこの章まで飛ばして読むか考えるのをやめた。そうして今モヤモヤを淡々と認めている。
だって読めるなら読む方がいい。どんなに歪で、格好悪くて、背筋が寒くて、吐き気を催したって、無心で読めるならば読んだ方が良い。そうに決まっている。多分だけど。
でも不快だ。ああ、不快だ。それできっと明日また同じ本の違う話を読んで、ああ不快だ、窮屈だ陰鬱だと駄々を捏ねるに違いない。
自分のことは自分が一番わかっているのだ。

(これは作品を読んで感じる推測だが)その捻くれた根性と素直じゃないのが似ているから、同族嫌悪と無い物ねだりで、私は太宰治の作品が滅茶苦茶嫌いだ。嫌いだ嫌いだと言いながら細々と読み進めるという、矛盾した、理屈の通らない、不恰好な、頭の悪い、感情的な、制御できていない行動を取るのだから、正に言葉の通り『滅茶苦茶に』嫌いなのである。
文章が捻くれていて、けれど緻密で、一言も間違っていなくて、でも意味不明だから恐ろしい。それなのにわかる、わかる、わかる、死ぬほどわかるのだから堪ったもんじゃないんだ。
だからいっぱい読んで、浴びて、理解して(しようとして)、嫌いだと言っておかないと、今の私のするべきことに反していくのだと薄っすら思う。薄っすら思うだけだから、多分それが正解なのだ。私のパターンは、私が一番よく知っているのだから。
いつだってそうして、視界の隅にチラつく正解を意図的に無視して、結果的に痛手を被ってきた。皆が、世間が、知り合いが、液晶の向こうの知識人がこれが正解だと声を揃えて言うことが正解だった確率は果たして何%か。
いや、皆々様におきましては如何にもそれが正解なのでございましょう、私には当てはまらないだけで、私がただひとり「それは違うと思うなあ」なんて呟きを声にもせずTwitterのフォロワー0の鍵アカウントにでも投稿して我慢していればそれで世界はまあるく収まり万々歳で永久の平和に恵まれるのでしょう。それを知っていらっしゃるのでしょう、知らんけど。

話が逸れた。

つまり私は太宰治が嫌いだ。でもそろそろ嫌悪するのにも疲れてきた。嫌悪や怒りは、存外に労力を使うのだ。

よく「アンチはその人のことめっちゃ好き」と言うけれども、あれは間違いなく正しいと思うんだ。
特に太宰治を読むようになってから「ああ、アンチや誹謗中傷を頑張る人は、人生への愛と、拗らせて行き場のない自己愛と、相手への憧憬と、絶望と不満と、その裏にあるほんのちょっとの希望を信じたいんだな」と自分のことのようにわかるようになってしまった。
その点については太宰治に感謝していたりする。

嫌いってマジで愛だと思う。相手を否定したり、嫌悪したり、傷付けたりしたくなるほどの愛が、どこかにある。その在処と存在そのものを自分で認めてやらないから、混沌とした暗中から抜け出せない。別に認めたくないなんて思ってるんじゃなくて、本当に手段がわからないのだ、おそらくは。
私だってわからない。どうしたらスッキリと太宰治を読んで「すごい!」のあとの「でも嫌い」を思わずに、せめて言わずに過ごせるようになるのかサッパリわからない。永遠にこうなんじゃないかと思うと恐怖もある。
いつまでも私は日本文学最大とも言える存在を日陰からあーだこーだ言って過ごすのか?
そうやって生きるのだろうか。
いや、そうはなるものか。
でも現にやっているではないか。今やっていることを明日やらないなんてどうして言える?
言えない。
それは言えないのだ。
ああ、ああ、あーーーーー悔しい!

私のこの悔しさも、悔しさも、悔しさも、実は全て他に変えられない悦びの中にある。
私は本が読めなかった。とんでもないほど読めなかった。
興味のある本を買っても、最初の一行を読んで読んで読んで、繰り返し読んで、頭の中で理解するのに20回かかったようなこともある。それくらい読めなかった。
小さい頃は好きだったのだ、本が。図鑑も好き、小説も好き、詩集も好き。黙読も好き、音読はもっと好き。
でもそれが小学校6年生の頃から次第に読めなくなって、それから20年間ほど、本を読みたいのに読めないという宙ぶらりんの迷子の時期が続いた。
30歳過ぎて漸く健康が徐々に板につき、人生ってこんなに面白楽しいものかとケラケラ笑う毎日に至ったところで、やっと私は本を読める自分を取り戻した。ように思う。
何故断言しないかというと、もっと読めるようになることを目論んでいるからだ。別に拘っているわけではないが、もっと読めるようになるに違いないと思う。最早意地で思う。
何しろ私の読書歴はまだ1年ちょっとなのだから、まだまだ上を目指さねば勿体無いだろう。

本はいいぞ。よく「読書はストレスを解消する」なんて言うけれども、その統計はよくわかる。よくわかる数少ない統計の一つだから頭にこびりついている。
因みに私でもよくわかる数少ない統計の中には、例えば他に「女性は男性と寝るより犬と寝る方が幸福度が増し、犬も女性と寝ると幸福度が上がる」というやつがある。ソースは知らないけど。 

また話が逸れた。

つまり今の私にとって、読書というのは自分の人生でお預けにお預けを重ねて待ち侘びた結構なご褒美なのである。
だからこそ、その至福の時間が太宰の書くような陰鬱な世界に侵食されてしまっては遣る瀬無い。
それなのにけれどもどうして! 私はついつい太宰治の作品を読もうとしてしまう。
これはもう多分焦りだ。読書という趣味において出遅れた私の必死の足掻きなのだ。
太宰治をたくさん読んでいるとなれば、如何にも読書家って感じじゃないか。うん。
いや、はじめはそういう青臭い浅はかな気持ちだったかもしれない。確かに安易な思考と浅はかな思慮で思いつき読み始めたのだけれども、どうにもこうにも右の膝下までだけがハマって沼から抜け出せなくなってしまったみたいに絡め取られているような気がする。
これはよくない。よくないのだ。よくないに違いない。太宰の策略のうちだ。そうに違いない。
いつの間にか読まされている。
なんてこと、なんてことだ。

マジで言いたいことが山ほどある。
私は、もっと、高校生の頃から大好きな詩人の中原中也の詩集を読むことに時間を使いたい。太宰より中也さんがいい。うん。
中也さんの本読みた過ぎて元々持っていたものに加えて更に2冊増えた。
なのに!! 太宰治から!! 開いてしまう!!
悪態ついてもいいかい。ダメか。わかったよ。

いやでもそれでも、読みたい時に読みたいものを読むのがいいに決まっている。

いやでも、違って、違うってば!
私は太宰を読みたくないんだ!!!!!

でもすごい。すごいのはわかる。滅茶苦茶にわかる。
読んでる間いちいち感嘆してしまう。
なんだその言い回し!
なんでこの話の流れでそんなことさせるんだ!
なんでそんなこと言わせるんだ!
なんだその結末!!!
つらいだろ!!!!!
そういう『つらい』ところを一々抉ってくる。そういうのが不快だ、大嫌いだ。
あーーーー。でも文章すごいんだよな。
太宰の文にしかない気持ち悪さと感動の絶妙なバランスがある。
認めない。絶対認めないけどな。
震えてるなんて言ってやるものか。
もし震えて見えるとしたらこれは不快による吐き気によるものだから、そこんとこよろしく。
だからその不快にハマってしまう自分の歪みが良くないのであって、多分太宰は悪くない。
多分だけどな。
いや、知らんけど。

でもまあ、私はそれでもスーツケースの上に置いた『太宰治ベスト集』を明日も持ち歩くのだろうから、本当に救いがない。
そう、正に、救いがないから嫌いなのだ。
だから私は太宰治が嫌いなのだ。




嫌いだってば!!

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