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掌編小説 『先生、三組の山田君は本当に天狗なんですか?』

「三組の山田は実は天狗らしいぞ」

そんな噂がクツジのクラスに流れたのは、夏休みも近いある日のことだった。

確かに三組の山田君はいつも天狗の面をかぶっている。そのお面の下を見たものはなかったし、皆慣れてしまっていたのでいまさら気にするものもいなかったのだ。

(うわあ、お面だけかと思ったら山田君は本当に天狗だったんだ)
クツジはクラスの情報屋を自称しているお調子者のキクスケがクラス中に吹聴しているのを聞きながら胸の中で呟いた。

クラスが違うといえど山田君はクツジの家の近くに住んでいて、時々一緒に遊ぶくらいの仲だった。もちろん山田君はそうやって遊ぶ時も決して天狗の面を外すことはなかった。川遊びをする時さえ面をつけたまま器用に泳いでいた。

天狗のお面。

何かを睨みつけるような眼をした天狗のお面。

昏い赤に染まっていて、真ん中には立派な鼻が隆々と突き立っており、その下に真っ白なひげを生やしている天狗のお面。

もちろんクツジも山田君と出会った当初は不思議に思っていたが、山田君と遊ぶのは楽しかったし木登りや泳法も上手く、そういったものが苦手なクツジに親身になって教えてくれたのでクツジは山田君のことが好きになり、天狗のお面をかぶっていることなんかどうでもよくなってしまっていたのである。

(あのお面の鼻には中身が入っているのかなあ)
クツジはぼんやりとそんなことを考えながら夏の空を窓越しに見上げていた。
明後日からは夏休みだ。西の空で入道雲がやる気を出している。

「はいはいはい、皆座るんだ。授業が始まるぞう」
先生が入ってきてパンパンと出席簿を叩きながら教壇に上がった。
「先生、三組の山田君は本当に天狗なんですか?」
先生が黒板の前で出席簿を開こうとするところにロクコの質問がとんだ。ロクコは四年二組で一番勉強ができる女の子だ。男の子たちが騒ぐとすぐに先生に言いつける癖があって男の子たちはロクコのことを煙たがっていたが、勉強も運動も良くできるので女の子たちの中では人気者だった。
「さっきからキクスケ君がうるさくそう言ってるんです」
髭をもじゃもじゃに生やしていてちょっと太り気味の先生はロクコの質問を聞くと笑ってこう答えた。
「はっはっは、山田が天狗だって?そんなわけないじゃないか。ほら、授業始めるぞ。座った座った」
先生が出席を取り始めると教室中を走り回っていたキクスケはロクコにあかんべえをして自分の席に戻った。
ざわつきの中で出席が取られるのを聞きながらクツジはさっきロクコの質問に笑った先生のことを考えていた。先生の笑い方は何だか不自然だった。顔もひきつってたような気がする。先生は何か知ってるのかなあ。
「おい、森杉、森杉靴次」
「は、はい」
自分の点呼に慌てて返事をするとクツジは又窓から顔を出した。空では入道雲が頑張っている。

クツジが山田君に会ったのはそれから一週間ほど後のことだった。山田君はやはり赤い天狗の面をつけてクツジの家の前を歩いていた。
「山田君。どこ行くの」
いつものように二階の部屋の窓から青空を覗いていたクツジは山田君に気づくと身を乗り出して大声を上げた。
「暑いから川に行くんだ」
天狗がそう答えた。
僕も行く、とクツジは山田君を家の前で待たせておいて海水パンツとゴーグルをひったくり、階段をドタドタと下りていった。

川遊びは楽しかった。クツジも山田君のおかげでだいぶ泳ぎが上手くなっていたし、なによりこの暑い日に水の中に入るというだけで面白かったのだ。クツジは山田君が本当に天狗なのかどうかという疑問など忘れて水と戯れる事に夢中になっていた。

今日は山田君がクツジに長く水に潜る方法を教えてくれた。まず最初におなかいっぱいに空気を吸ってそれから胸に空気を吸えば長い間息を止められている。そうやって体一杯に空気を溜めてから水に潜るのだ。二人は川のゆるやかで深いところを選んで潜り、水の中で仰向けになって水面を見つめた。ゆるやかに流れる淡く深い青が光を通して二人の眼を染めていた。それは本当にきれいな光景だった。

しばらくして、ぐったりと疲れた二人は川辺の草原に寝ころんでいた。もちろんこんな時も山田君は天狗の面をつけたままだった。赤いお面が水に濡れて奇妙にてかっている。

「やっぱり川は面白いなあ」
山田君が寝ころんだまま呟く。

山田君のお面には五つの穴が開いている。まず常に何かをにらみつけている眼のところにのぞき穴が二つ。ここからは山田君の優しそうな眼の光が時々洩れる。それから鼻のところに二つ。これは下を向いているのであまり見えない。それから口のところが大きくあいている。ここからは山田君の唇が見える。山田君が笑うと白い奇麗な歯がきちんと並んでいるのも見える。

そんな天狗の面を見ている内にクツジの心には又あの疑問が湧いてきた。
それを山田君に直接聞く事はもちろんできなかったが、しかし心に何かくすぐったいようなもやもやしたものの広がっていくのをとめる事もできなかった。
今日も入道雲が湧き上がっている。その入道雲のようにクツジの心の中で濁った塊がふくらんでいた。

山田君は水に疲れた体を心地よさそうに草原にゆだねている。眠っているのかもしれない。天狗の面もぴくりとも動いていなかった。
それを見ているうちに、クツジは妙なことに気づいた。

天狗の鼻がさっきより少し長くなっている。

眉をひそめて近づいてみた。
風もなく、あたりは静かで、さらさらと川の流れる音しか聞こえない。

息を殺してしばらく眺めていると、やはり天狗の鼻は少しづつ伸びているのだった。
クツジは驚いた。

このお面は生きている。

というよりもこれはお面ではない。
これは血の通った山田くんの顔なのだ。

そうでなければ鼻など伸びはしない。

よく見ると、お面についていたゴム紐も、山田くんの頭に埋まって一体化している。

そうやってる間にもクツジの目の前で山田くんの鼻が伸びていく。

クツジの右手はふらふらと天狗の鼻へと伸びた。あたかも自分の意思とは関係のないように。
その鼻をどうしようとも思わなかったし、そんなことしてはいけないとも思わなかった。
ただその手は天狗の面の鼻を掴もうとしていた。

「……嗚呼」

手のひらがおずおずと天狗の鼻を包んだ刹那、山田君は吐息を漏らした。
なぜかその手を離してはいけないような気がして、クツジはそのままでいた。
いつの間にか鼻は元の大きさに戻っていたけれど、やはり手は動かさなかった。

山田君は何かに陶酔したように、しばらくその身を横たえたままでいたが、突然クツジの手を掴むと鼻からゆっくりとはずした。
そしてそのまま洋服をひっつかみ、海水パンツ一丁のまま駆け出していってしまった。

クツジは右手を体の後ろに廻したまましばらく途方に暮れていた。
夏日を受け、自分を忘れてしまったように、ただただ立ちつくしていた。
自分は取り返しのつかない事をしてしまったのだろうか。
右手は、しかし、まだそこだけ天狗の鼻の感触が残っていた。


<終劇>

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