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言葉の影、影を踏むー谷川俊太郎さんの言葉に触れてー


2016年にSNSの限定公開で書いた日記をアップします。

(第5回福岡ポエイチ谷川俊太郎さんを迎えて)

旅をすると美術館に行きたくなる。いつかこの目で見ようと夢見ているのはバーゼル美術館所蔵、ココシュカが描いた「風の花嫁」だ。ココシュカが上塗りに次ぐ上塗りをした絵で門外不出どころか少しでも動かすと剥がれ落ちてしまう恐れもある作品だと言われている。

私も実行委員を務めさせてもらった福岡ポエイチが5周年を迎えた。記念のトークイベントに谷川俊太郎さんをお招きし聞き手は渡辺玄英さんにお願いした。
10年以上前になるが私は一度谷川さんの講演を聞く機会があった。大阪文学学校という場所で詩を学んだ時期があって、在校中に谷川さんが講演に来られたことがあったからだ。当時の私は谷川さんにあまり好感を持っていなかった。作品を読んでなんとなく「この人は、好きで詩を書いているんだろうか?」その疑問がずっと頭を離れなかったからだ。辻仁成の詩集のあとがきにあった「私は詩に疲れている」という言葉を目にすると、疲れているのなら書かなければいいのに、とまで思ってさえいたのだ。

「こんなことを言うといつもがっかりさせてしまうのですけれど、私は大学も出ていないし、書くことでしか飯を食べられないと思っていたので、ある時期まで生活のために詩を必死で書いていたのです。どうやったら読む人に楽しんで読んでもらえるだろう、売れるだろう、ずっとそれを考えて書いてきました。」

私にとっては既知のことであった。が、彼を生きたまま伝説化しかねない、熱心に耳を傾けている500名以上の聴衆に向けてそう言うのだ。この谷川俊太郎という人は。この、てらいのなさ。胸がすくむ。

谷川さんは言葉を信じていないのではないかと思っていましたと渡辺玄英さん。その感覚は多くの読者が抱くものだろう。しかしそう思うだけで私はそれ以上のことは考えてみたことがなかった。抑制の利いた声で切り込む。だからこそ非常に「誠実に」言葉に向き合っていらっしゃると。スタッフとしてステージに近い位置にいた幸運だろう、そうかな…と言って照れたような表情になる谷川さんを見つめることが出来た。

「詩はリズムとよく言われますが私は少し違うと思っているんですね。日本の詩はもっと平坦なもので「調べ」だと。」

「ずっと詩を書いてきてもっとも変わったものは「わたし」ですね。変わらざるを得なかったということもありますが。」

ココシュカの絵だ。「風の花嫁」を観ているのだ。発信する言葉の見えない影が、沈黙を孕んで幾重にも層を創る。あ、脈動を始めた。交わし合う「しらべ」が呼吸のようだ。
私は慌てて見えないその影を踏もうとする。そして、すぐにあきらめて手放す。この行為は谷川さんがさっき語っていた「言葉の意味を辞書で引いて一義的に理解しようとする行い」にとても近いと気づいたから。
私のこの感覚はきっと風化する。風化するから、いま、ここでしか受け止められない。

私は念願のバーゼルに立っているのだ。


アンビリーバーボーな薄給で働いているのでw他県の詩の勉強会に行く旅費の積立にさせていただきます。