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アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』全力読解

 チェコの文学新人賞を多数受賞したアンナ・ツィマ著『シブヤで目覚めて』があまりにも快作なので、徹底分析してみたいと思う。

 プラハの大学で日本文学を専攻するヤナは、ゴスロリと忍者が闊歩する学部で、謎の作家・川下清丸の小説にのめりこんでいる。そのとき渋谷では「分裂」したヤナが、単語帳片手に幽霊となって街に閉じ込められていた。鍵を握る謎の作家の秘密とは?日本文学フリークたちの恋と冒険の行方とは。チェコ文学新人賞を総なめにした作家により、ふたつの街が重なりあう次世代ジャパネスク小説(本書帯文裏テキスト)

 この物語は複数のストーリーラインで構成されている。プラハと渋谷という二つの場所におけるストーリーラインが一つ(当初二つのラインがあるが終盤一つに収斂する)。小説内小説ともいうべき大正時代に書かれたとされる『分裂』『恋人』『揺れる想い出』の架空の大正時代作家川下清丸の作品を巡るストーリーラインがもう一つ。サブラインとしては主人公ヤナ・クプコヴァーの友人クリスティーナを巡るストーリーラインがある。クリスティーナを巡る物語はともすればサイドストーリー故に見落としがちだが、非常に重要な意味を持っている。もう一人の友人マチコを巡るストーリーラインよりもよほど大きな意味がある。

 そしてこの重層的ストーリーラインに加えて、小説内小説が大正時代の自伝的作品であるという要素も相俟って、現在と大正時代という二つのタイムラインが構成されている。それに加えて、プラハと渋谷でも時差がある。それも単純な時差ではない。渋谷での出来事は七年前の出来事と現在の二つの時間が描かれる。前者は前半、後者は終盤に描かれることになる。

 このような多層性・多重性に加えて、物語の読み方も幾通りもの読み方ができるようになっている。もっとも単純な読み方としては、主人公ヤナ・クプコヴァーの成長物語あるいはヤナとヴィクトル・クリーマを巡る恋愛物語という読み方だろう。それに加えて、ヤナとクリーマが川下の作品を巡り川下とその作品を追いかける物語、川下の小説内で繰り広げられる小説内小説の主人公聡が生涯追いかけた清子の謎に迫る物語という、推理小説・探偵小説的読み方もできるだろう。中盤までは主にサイドストーリーとなるクリスティーナやマチコの物語の中で家族の問題を取り上げた物語を見出すこともできるが、本作のメインテーマでは恐らくない。(また描写中、チェコの社会主義時代への哀愁と資本主義への皮肉も若干描かれるが、それもエッセンス程度と考えて良さそうだ。※ここの部分は自分の読解不足なので別途補論をまとめました。

 本作のテーマは何かという点はいささか難しい点もある。単純に成長物語や恋愛物語として読むこともできるが、それだけではいささか浅い読み方になるかもしれない。では「分裂」がテーマかというと、この点も微妙だ。確かにヤナや分裂するが、分裂と合一の物語という点は表層ではないかと感じる。そこで私としては「想いの強さが現実を動かす」をテーマとして読んでみることをお勧めしたい。

 本作は多くのエッセンスを取り込み多層性・重層性に富む仕上がりとなっており、その中には実在の人物と架空の人物が入り混じるため(川下清丸=上田聡は架空)、一読した後は読みながら調べつつ読み解いて再読していく楽しみもある。第一部で登場する川下の『分裂』に言及したとされる日本文学者ヴラスタ・ヒルスカーは、プラハのカレル大学で実際に日本の文学、演劇などの教鞭を取っていた実在の人物である。第三部で登場するチェコスロバキア日本協会を立ち上げたとされるミロスラフ・ノヴァークについても実在の人物で、ヒルスカーと並びカレル大学の日本学を国際レベルまで引き上げた人物である。このあたりは日本・チェコ交流100周年の特設ページでも取り上げられている。Czech-Japanese Associationも実在の協会である。
 日本の作家については割愛するが、このように実在の人物を織り交ぜて作り上げられた作品だからこそであろう、チェコで刊行後、川下清丸を実在の作家と思った人が多かったことがあとがきで触れられている。なおアンナ・ツィマ自身の手によるあとがきには巧妙にも川下の生涯が綴られている。どこまでも手が込んでいる作品であり、読み応えがある作品だ。

 ここからは本作の展開順に見ていこうと思う。以下全編にわたりどういった点に注目して読んでいったのかをネタバレ全開で詳述していくので、未読の方は必ず一読した後に読んで頂きたい。


===ここから先ネタバレ含みます===


 第一部の舞台はプラハだ。ここでは主人公ヤナ、友人クリスティーナとマチコの紹介がメインで展開される。ヤナの両親は教育熱心であり、ヤナに大きな影響を与えている。特に父親は文学・芸術を多くヤナに与え、ヤナは文学的野心を蓄えた子どもとして育つ。その中で村上春樹の『アフターダーク』に大きな衝撃を受け日本に興味を抱き、アニメを見ては青い髪の少年を書き、マンガに接してコミックスを描き始めるといった具合だが、これらは実際のところ表層的な変化にすぎない。黒沢監督作『酔いどれ天使』の三船敏郎の半裸シーンに歓喜し、後述されるが三島由紀夫を携帯の待ち受け画面にし、ギムナジウムでは日々日本人に近づいていると錯覚するような塩梅だ。しかしこのような序盤の展開において、ヤナの母親がヴェトナム人や黒人の肌の色をどう表現すべきかを巡ってヤナの先生と舌戦を繰り広げ、父親は中国人・日本人というだけで見ためなどで馬鹿にしてはいけないとヤナに薫陶を授けるなど、表層と本質を巡る大きな問いを立てている。ヤナは幼心に理解するのみではあるが、重要なテーマの一つである。この内容は分裂後のヤナを巡る物語に大きく影響を与えている。
 同時にこの第一部でヤナが十七歳で日本へ観光で訪れたことが提示される。実はこの時点でヤナは分裂をしてしまうのだが、これは第二部まで分からない。合わせてこのパートではヤナが日本文学に傾斜する契機の一つである日本研究者の一人と出会い、古今和歌集の翻案(アンソロジー)『行く水に数かく』を手にし、凡河内躬恒の雪の歌に触れ、作品が何百年も経た後も人々の感情を動かすことを体験することになる。これはその後ヤナが川下の作品に心を揺り動かされることになるごく短い伏線であるが、『行く水に数かく』自体はより後半への伏線にもなっている。
 加えて、チェコの入試会場でハロウィン宜しく仮装大会の様相を呈していた受験会場を見て、ヤナは一定の偏見を持つこととなる。ピカチュウの恰好をして受験に臨む存在を見たら、この偏見はやむを得ないだろう。それはヤナの中で文学とアニメ・ゲームとの間に差を見出すことになるのだが(ヤナは前者)、このシーンがあることで第二部での日本に対する印象描写をオリエンタリズム的蔑視ではなく主観印象であるとの描写を可能としている。これは第五部でさらに大きな展開を見せることになる。一方でヤナは日本文化・日本文学に進んでいくにあたり「で、何の役に立つの?」(P.37)という世間の壁にぶち当たる。これは日本における文化教育・外国語教育に対しての批判の反転としても受け取ることができるだろう。著者アンナは実際に日本に留学しているため、一定程度著者の体験を混ぜ込んだ描写であろうと推察することもできる。
 ともあれ、第一部でプラハでのメイン舞台の一つとなる図書室での仕事を確保し、川下清丸の『分裂』に出会ったところで本作は大きく動き出すのである。『分裂』から『恋人』へと進み、ここからヤナの日本語との悪戦苦闘が始まるとともに、物語自体も紆余曲折を始めることとなる。
 クリスティーナのストーリーラインは、両親が実質離婚の別居状態であり、父親はスリランカへと逃げ出し僧侶となり、母親はオカルト的占いに没頭する有様だ。それゆえ魔術的事物への反発は大きい。この「魔術的」はしばしば物語中「魔法」という表現で反復される重要なキーワードなので念頭に置いて読み進めたい(決してオカルトという意味ではなく、重要なエッセンスとして)。

 第二部は渋谷が舞台だ。ここでは分裂したヤナ(以下便宜上「ヤナ(思念)」と記載する)が主人公となる。何年もここにいたい、チェコに帰りたくないと思い続けていたヤナは実際にヤナ(思念)として渋谷に閉じ込められ、渋谷から出ようとするとハチ公前に引き戻されるという存在となる。いたずら心で様々なことをやってしまうヤナ(思念)であるが、そんなヤナ(思念)には誰も気づかない。調子に乗ってレモンを大型書店に置いてくるなどやりたい放題である。その中で描かれるレモンを爆弾に見立てて本屋に置くという行為は梶井基次郎『檸檬』のオマージュだ。レモンが「檸檬」ではなく「レモン」と訳されているのは意図的か意図的でないか、そこは定かではない。あるいは「檸檬」では露骨過ぎるのかもしれない。
 さまざまな悪戯で時間を潰しつつ、ヤナ(思念)はふと自分は既に帰国していてもう一人の自分がここにいるのではないかと感じ、不安と寂しさを感じる。ここで目標を日本語をマスターして帰国することを決意するが、当然ながらこの目標は後日達成しても帰国できるような状況にはならないことになる。ともあれヤナ(思念)を人といってよければ、人は目標があってこそ前に進めるという意図をここから引き出すこともできよう。目先であれマイルストーンであれ。同時に十七歳で日本に訪れ分裂したヤナ(思念)はその後のヤナにおけるプラハでの成長が無いため、表層への拘りを強めることになる(十七歳の感性のママに時が過ぎる)。日本人のなんでもカワイイに還元してしまう幼稚性を蔑視するとともに、同じく敬遠していたビジュアル系音楽において、その系統のバンドのメンバーに仲代達矢風の男を見出して「けっこうタイプ」と感じ入ってしまい、勝手に仲代と呼び始める(仲代=アキラであることが明示されるのは最終盤である)。もっともそれも三船敏郎=神には及ばないのだが。重要なのは渋谷で分裂したヤナ(思念)は十七歳の時のヤナの感性を引きずっているという点で、これは終盤まで意識しておくべき点だ。表層と本質という構図はプラハのヤナと渋谷のヤナ(思念)との相違の構図でもある。

 第三部は再びプラハに舞台を移す。ヤナは作家川下の作品、実像に迫るべくマレク・トルンカを頼るがあいにくとマレクは伊勢物語に傾倒するような古典専門であり、そのマレクからクリーマを推薦される。この時のヤナのクリーマに対する印象は「化け物」である。決して良い印象ではない。その描写の中に「建物内部には魔法がかけられていて、そこにある化け物が蠢いている」(P.61)という描写が現れる。キーワードの一つ「魔術的=魔法」だ。
 クリーマの印象は確かに壊滅的に酷いもので、大学の講演では自身の知識と分析によって講演者に議論を吹っ掛け、ヤナが初めて会話した際に修論のテーマが日本のミステリーだと聞き早々に話を打ち切って去ってしまうなど、散々である。そんなクリーマに対してヤナは純文学を専門とするクリーマは他の人を見下していると判断するが、ヤナ自身もサブカルチャーを見下しているわけで、五十歩百歩である。しかし、『恋人』の謎解きの過程で、ヤナが松本清張にも造詣があることを知り、クリーマのヤナに対する評価は上がる。そんなクリーマからロラン・バルト『作者の死』を巡る警句を教えられ、ヤナは文学を読むだけではなく文学理論にも手を広げることになる。ヤナの成長であり、ツヴェタン・トドロフ『文学の理論』と格闘する姿が描かれる。トドロフは1970年に『幻想文学』を発表しており、本作の幻想物語としての性質の暗示でもある。
 またマチコ(雅知子)とその兄の窓拭き(頭明=アキラ)のエピソードが登場する。マチコの両親は二人が頭の良い子になって欲しいという願いをこめてこの名前をつけたことが語られ、ヤナはアキラが窓の写真を撮り続けていることに関心を抱く。第二部でヤナ(思念)が主に仲代に似ているという理由(タイプだからという理由)で興味を抱き観察することになる人物こそ、このマチコの兄アキラであることは最終第十部まで明示されないが、今後様々に伏線が張られていくことになる。
 そしてこのパートからいよいよ川下の小説のストーリーラインが駆動し始める。ヤナが川下の『恋人』の翻訳に着手する。その翻訳はいかにもぎこちなく、ヤナがまだまだ日本語の読解には不慣れであることを明示している。肝心な『恋人』の中で語られる事項としては、『恋人』の主人公(=上田聡)の父親が死去し、母親が塞ぎ込み、叔母に大火の体験があること、叔母は独身で主人公の兄(=上田太郎)は無邪気に「お嫁にしてあげる」というが、主人公(=聡)は叔母とは結婚できないことを知っていることなどである。この中で「大火」と「叔母とは結婚できない(近親婚のタブー)」は後々大きな意味を持ってくる。次いで主人公(=聡)は川下の一連の作品で最重要のキーパーソン清子と出会う。清子は聡の父を知っていると告げ、叔母は清子を「魔性の女」と呼ぶ。この『恋人』の翻訳を通じてヤナの川下を巡る謎解きが動き出し、川下の生まれである川越で大火があったことを突き止め、『恋人』には川下の実体験が反映されているのではないかと推理する。
 このパートではクリスティーナのもとに父から帰国する旨の連絡があったことが描写されているが、プラハに来る者とプラハから去る者の対比は本格的には第五部から始まるのでここでは割愛する。
 ここで各登場人物の名前に注目してみて欲しい。マチコが兄アキラの名前の漢字と由来をわざわざこのパートで説明していることから、他の登場人物の名前の由来や語義を解き明かすことが期待されている。川下清丸及び『恋人』内の清子はいずれも「水・川」に関連する名前であり、これは後段でヤナ達も気づくポイントだ。作中作主人公の聡は「聡明の総」である(これも終盤作中作で明示的に述べられる)。ただし知的であって欲しいという期待から名付けられた名前と裏腹に、マチコとアキラはいずれも知性よりも感性に生きる人であり、そのことは聡も同様に知性よりも感性が優先してしまうことを暗示している。主人公ヤナは日本語で漢字をあてるなら「梁」となり、これも川に関連する言葉であると同時にヤナの名前の原義は「神は慈悲深い」である。ヤナに関してはこのダブルミーニングであると解釈すべきで、この二重性が川下作品と現実とを行き来することができる存在であることを象徴している。クリーマは「傾く」が原義であり重い本を鞄に大量に詰めこみいつも傾きながら歩いているクリーマを文字通り意味している.クリスティーナはそのままキリスト教徒を原義とするが、この名前であるがゆえにスリランカへ仏教に走った父(非キリスト者)とは相容れないことを暗示している。クリスティーナが信心深いかはあまり関係がない(そういった描写もないが信仰への嫌悪的印象は描写されている)。

 第四部は再び渋谷を舞台として短いパートであるが、ここでヤナ(思念)は誰にも見られず誰とも会話できず渋谷に囚われている自分を日本にいたいという想いが強すぎて生じた「想いそのもの」なのではないかとの結論を得る。そして日本語をマスターするだけでは脱出できないのではないか、それを可能とするのは「奇跡」だけではないかと思うのであった。「奇跡」=「魔術的」モチーフであり、これは最終盤で重要な意味を持つ伏線だ。
 短いパートではあるが、ヤナ(思念)が仲代(アキラ)とその彼女と遭遇する。仲代と彼女はラブホテルに入るが、ヤナ(思念)はそれを追うものの、行為自体は覗かず入り口でひたすら待ち続ける。これは仲代に好意を抱き始めたヤナ(思念)の、仲代が他者のものであることを認めたくない心理の表れと受け取ることもできるし、第五部でヤナが『恋人』翻訳の際に手淫シーンを照れながらも良いと感じクリーマと解釈の議論を交わすことと対照的だ。プラハのヤナは少しずつ大人へと成長の歩みを進めているのに対してヤナ(思念)は十七歳のママ成長していないということを第五部との対比で際立たせている。もっとも、ヤナ(思念)自身は覗かなかったことを品性の問題としていることから、美の表層への拘りを表していると解釈できなくもない。
 仲代の彼女(後段で名前はミエコと明かされる)は後日、仲代から別れ話を切り出され、その幼児性と過度の我儘、独占欲を爆発させる。仲代と彼女=ミエコとは完全に心がすれ違い噛み合っていないのだが、このモチーフは第七部でのヤナとクリーマとの間で、ここまで幼稚ではない形で反復される(そう、ヤナはプラハでは成長しているのだ)。
 そして最重要な出来事は第四部の最後に訪れる。ヤナ(思念)は気付いているか微妙な描写だが、ヤナ(思念)は仲代と喧嘩し倒れ込んだミエコが立ち上がるために手を差し伸べ手助けしている。ミエコが誰に言うでもなく謝辞を繰り返していることから、実際にミエコはヤナ(思念)に触れたはずだ。そう、歪むほどに強い想いを持った人はヤナ(思念)に触れることができるのだ。

 第五部はプラハに戻る。このあたりから、川下清丸/『恋人』とプラハの現実とのシンクロニティが起こり始める。第五部から第八部までは第六部を除いてプラハが舞台となるが、プラハでのヤナとクリーマのストーリーライン、『恋人』内の聡と清子のストーリーラインに加え、もう一つの川下作品『揺れる思い出』のストーリーライン、クリスティーナと父親とのサイドストーリーライン、そしてヤナとアキラとのストーリーラインといくつもの物語がそれぞれのストーリーを暗示・明示する形で絡み合っていくことになる。
 まずヤナの拙い『恋人』の翻訳に対して、真っ赤に校正したクリーマの翻訳が戻され、ヤナとクリーマの翻訳能力の差が歴然と示される。ヤナはまだまだ成長途上だ。その後クリーマは川下清丸の本名が上田聡であることを突き止める。『恋人』の主人公も聡であることからも、小説内小説と現実とのオーバーラップが始まったことを意味している。だからこそ、川下の死が入水自殺であったことを知ってヤナは大きな衝撃を受ける。
 同時に『恋人』の中で聡が亡き父の書斎から一冊の本を手に取った際、それが清子からの贈り物であることを意味する献本書名が為されていたことが明らかにされた直後に、マチコからヤナへ兄アキラの写真が贈られる。『恋人』内で展開されるシーンがプラハの現実で反復されていくことになる予兆が表れている。
 ヤナとクリーマを巡っては、クリーマが日本文化・日本文学に進むきっかけが『ナルト』や<ファイナルファンタジー>であったことが明かされる。ヤナは自分が軽薄なアニメやサブカルチャーに浮かれて日本学を専攻するような学友を見下していたこともあり、クリーマの意外な一面を知って驚くとともに、クリーマの博学博識に圧倒されつつも、クリーマが敬遠気味であった日本ミステリーの分野で島田荘司『占星術殺人事件』を薦めることで、恐らく初めてクリーマよりも造詣がある面を示す。ヤナも一方的にクリーマから教わるだけの存在ではなくなりつつあることの示唆である。また、第四部での仲代とミエコとのラブホテル入り、第五部での『恋人』の手淫シーン、またノウザークがヤナを性愛小説の共同研究に誘う(ヤナは断る)ことなどが、その後のヤナとクリーマの間での性愛を巡る展開の可能性を示唆している。
 また、サイドストーリーも動き始め、マチコの兄アキラのプラハ来訪が予告されるとともに、クリスティーナの父がスリランカから帰国する。第三部で登場人物の名前の紐解きをした際に触れたように、クリスティーナは当然に父(仏教徒)を拒絶するのだった。

 第六部は再び渋谷が舞台。ヤナ(思念)は仲代=アキラとミエコの喧嘩の中でミエコが発した「死ね」という罵倒が忘れられず仲代の身を案じるが、その願いは最悪の形で裏切られ、仲代はライブの練習をしていた倉庫に閉じ込められてしまうという現実が訪れる。仲代は必至に助けを求めるが、ヤナ(思念)は何もできない状況に無力感に打ちのめされる。
そこにミエコが現れるも、ミエコの強く歪んだ愛は仲代を試すだけ試して二度までも立ち去ってしまう。しかしその直後、倉庫の外に置かれていた仲代の携帯電話に仲代の母から着信があり、ヤナ(思念)はアキラの居場所を伝える。ここでヤナ(思念)と仲代母とは会話が成立しているし、実際その一時間後には母が仲代を助けに来て、結果半死状態ではあったが仲代は救出される。この展開は、現実を動かす強い想いを表している。
 仲代が救出された後、三度現れたミエコに対し、ヤナ(思念)は「正義のひと」と自称し顕現する。ミエコもまた歪むほどに強い仲代への愛の想いゆえにヤナ(思念)が見えるのだった。ミエコはヤナ(思念)を見て、うずくまって両手で頭を抱え込む、胎児のような恰好ですっかり怯え切ってしまうのだが、この退行はミエコが今後仲代と関わることがないことを示唆している。胎児では性愛は無理だからだ。同時にそこまでミエコを追い詰めたことでヤナ(思念)は怒りを鎮めるとともに、無力感から一転して力強さという自信を得る。そして、ヤナが願ったのは「ここ(日本)にいられますように」だけではなく「何か体験できますように」であったことを思い出す。想いが現実を動かしたという確信は、ヤナ(思念)に再び自身(ヤナ)と出会うはずという新たな希望をもたらした。

 第七部はプラハに舞台を戻すが、第七部と第八部はこの物語の中でもっとも重層的展開が繰り広げられる。川下の小説も『恋人』だけではなく『揺れる想い出』が追加されるからだ。そして多くの反復=シンクロニティが展開されるため、メモを取りながら、読み返しながら読み進めたいパートだ。
 冒頭クリスマスの間、クリーマからヤナに何も連絡が無かったことが明かされ、それに対してクリスティーナはクリーマに恋人がいる可能性を示唆する。これによりヤナはクリーマに好意を抱いていることを恐らくは確信する。一方で『恋人』の中で聡は清子への想いから三年ぶりに清子を探すことに着手する。ヤナとクリーマが川下の実像に迫ろうとする謎解きが、『恋人』における聡の清子の謎に迫る行為と共鳴していく。クリーマはヤナへ川下のもう一つの著作『揺れる想い出』のコピーを贈るとともに、クリスマスは特段何も無かったことを告げ、ヤナはクリーマを抱きしめる。隠すことの無い好意の表明。『恋人』の中で聡が清子への想いから行動を起こすこととシンクロする。クリーマは父の入院に不安を覚え、そのためにヤナを部屋に上げるのだが、ヤナが明確にクリーマに好意を示しているのに対してクリーマはまだそこまで明示的に好意を示さない。
 『恋人』と平行して『揺れる想い出』の翻訳が進められる。『揺れる想い出』は川下が関東大震災で経験した災禍を描いた作品だが、この際の火災が川下の父が経験した川越の大火を想起させ、炎は死をもたらす象徴として機能し始める。
 『恋人』で聡が外を寒いと感じ探り当てた清子の家に上がり込むと、ヤナもクリーマの家に上がり込む。ヤナがクリーマと食事を摂ると、聡も清子と食事を摂る。このようにシンクロしていく。『恋人』にて清子は囲炉裏の燃える炎に反射し魅力的に映るが、『揺れる想い出』で示されたように炎は死をもたらす暗示だ。同時に清子は聡の父について「文学を愛し、自分の知識を授けるべき才能豊かな学生が出てくる」ことを願っていたことが語られる(P.201 )。聡の父が清子に書を教えたことも清子の才能を見込んでのことだろうと推測すると、清子とヤナが才能豊かな学生としてオーバーラップするはずだ。
 これらを経て、クリスティーナはヤナのクリーマに対する印象が大きく変わったことに驚く。「退屈で鼻もちならないインテリ」だったはずが「知的で、興味深い、繊細な人間」へと変わったのだからクリスティーナが驚くのは無理もないが、これはヤナが表層から本質を見るように成長し変化したことを意味している。第二部解説の最後に言及したヤナとヤナ(思念)の相違となる表層と本質の違いだ。ただしクリーマはまだこの段階では「全然輝いていない」(P.206)。クリーマがヒーローになるためには、ヤナの半身であるヤナ(思念)と出会う必要がある。
 このパートではもう少しばかり重要な描写がある。一つはマチコが語る叔母のマチコ母への陰湿な虐めであり、これは聡の叔母が清子母をどのように扱ったかの暗示となっている。そして『揺れる想い出』の中で私=川下が母の結婚の薦めに対して清子への想いを改めるとともに自身も病床で熱に襲われる。「炎が私を襲」うことが意味するのは炎=死の前触れである。そして、ヤナがクリーマとキスを交わし抱き寄せたことに対してクリーマは躊躇する。この時クリーマの日本留学が決まっていたからだ。ヤナとクリーマの心はヤナの誤解もありすれ違うが、これによりクリーマはヒーローになる条件=ヤナ(思念)に出会うための道が開けることになる。もちろんクリーマには予想もしていない道である。一方『恋人』の中で聡は清子に結婚の意思を伝える。魔法をかけられた」ように清子に吸い寄せられるのだった。

 第八部も引き続きプラハが舞台。クリスティーナの父がプラハに来てクリーマがプラハを去るように、このパートではマチコの兄アキラ=仲代がプラハに来てノウザークがプラハを去ることになる。誰かが入れば誰かが去るという光景が繰り返される。ヤナにとってクリーマとのキスの瞬間は「魔法」のひとときだった。しかしそれは王子様のキスではない。まだヤナ(思念)が渋谷にいるからだ。
 第七部終盤から『恋心』の物語とヤナの物語はシンクロではなく一見対照的展開を見せるようになる。聡は想い人清子との距離が縮んでいく一方、クリーマはヤナの元を去り東京へ留学してしまう。しかし、これは「結ばれるべきではない」聡と清子の関係が破滅に向かっていくのに対して、ヤナとクリーマの関係はそうならないことを示唆している。なぜならこの時ヤナの近くにいるのはマチコの兄アキラなのだ。
 これはヤナとアキラは結ばれるべき関係ではないことを意味している。アキラはヤナを誘いにかかるが、ヤナはそれを受け入れない。その一方で『恋人』で聡の告白文ともいえる作文を書きあげ、ついに聡と清子は結ばれる。ヤナはアキラの横顔にクリーマと異なる横顔を認め、誘いに対しても思い出すのはクリーマのことばかり。ヤナはノウザークからは「片足は日本に行っているんじゃないか」、アキラからは「ここにいるようないないような」と指摘される。このパートは次の第九部の渋谷のパートとほぼ同時期のプラハであり、第九部では渋谷でヤナ(思念)がクリーマと出会い、川下の謎に迫る。ヤナ(思念)が渋谷でヤナとの合一に近づくにつれ、そしてヤナのクリーマへの想いが再確認されるにつれ、心のどこかでクリーマを追い求めているのだ。
 そんなアキラの窓の写真を撮る理由が明かされる。窓だけではなくその向こう側、そしてたどり着けないものをも撮っている。これは閉所恐怖所の治療の一環でもあるのだが、窓への欲求はこの閉所恐怖症=閉じ込められたアキラ=仲代の経験の産物なのだ。だからこそ危険をおかしても窓に拘り、ヤナと二人で訪れた廃屋でスカベンジャーのホームレスが運び出そうとしていた鉄製の窓枠に対して咄嗟にシャッターを切ってしまう。それによって引き起こされる危険を顧みずに。このことを散々嫌味のようにヤナに説教されつつ、アキラは「何か手助けできる?」と提案する。この提案は結果第十部でヤナ(思念)に引き継がれていく。クリーマが日本へ行き、アキラがプラハに来ることで、プラハと渋谷の交錯が始まる。
 サイドストーリーとなるクリスティーナの物語は、父と対決し、和解せず、その父の人生は手遅れでやり直せないことを指摘して終わりを告げる。気づいた頃にはすべて手遅れであるという指摘は、聡が清子を失った後に抱いた喪失感を暗示しているように思う。実際第九部で取り返しのつかない過ちとその結果が聡と清子に訪れる。
 また第八部で『行く水に数かく』がヤナの手元に戻ることになる。これを図書室に置いたのが誰かは明示されていない。引用される「蜘蛛の歌」は意味深だが、失われたものはないと示唆されることから、あるいはヤナ(思念)の強い想いが作用した結果なのかもしれない。

 第九部、第十部は渋谷を舞台に繰り広げられる。この渋谷はそれまでの七年前の渋谷ではない。クリーマが日本に留学した同時期の渋谷だ。クリーマは偶然にもヤナ(思念)を見つける。ヤナ(思念)を見ることができるのは想いが強い人だけであり、クリーマがいかにヤナを想い、プラハからの旅立ち際の出来事に強く後悔を抱いていたかが暗示される。しかしヤナ(思念)はヤナから分裂した後の七年間プラハでの成長を経験していないため、相変らず三船敏郎、仲代達矢が良いと表層のタイプに拘りをみせる。クリーマはヤナ(思念)のタイプではない。そしてプラハでは往々にしてクリーマが物語を牽引しヤナに様々な物事を教えていく関係であり、パートナーとなる寸前にクリーマがプラハを離れることになるのだが、ヤナ(思念)は一貫して腰が引けがちなクリーマを主導する立場として描かれる。
 ヤナ(思念)の説明にクリーマは当初それを信じないが、少しずつそれを受け入れ始める。そしてヤナ(思念)がヤナと合一するためには、ヤナが渋谷に来るしかないと考える。日本にいたい強い想いがヤナ(思念)を生み出したのであれば、ヤナ(思念)がそこを出たいと思うのは自己否定になる。そうではなく自己肯定としての合一が必要。しかしヤナが日本にくるためにはヤナが拘る川下の作品だけでは、博士論文には作品・資料が足りない。
クリーマはヤナ(思念)を古典的おとぎ話のようなものと受け止め、それを助ける王子さまであることを自覚する。ようやくこの最終盤でクリーマはヒーローへと変貌を遂げるのだ。それもとてもぎこちなくおっかなびっくりで。クリーマは清子が上田清子という川下=上田聡の従姉であり、戸籍上は除籍されていることを突き止めるとともに、川下の墓の所在を突き止める。
この過程で『恋人』の中では清子が聡に対し上田家への恨みと報復を宣言し、ついにその強い想いをぶちまける。清子とその母は聡の母と叔母から、醜聞が原因で追いやられていたのだ。原因があるとはいえ、叔母が母を虐げる構図はマチコの母と叔母との関係を反復している。聡は清子に裏切られたと感じ逃げ出すが、川へ転落してしまう。清子は思い直したように聡を追い、聡を救い出すが一転自身が川へ転落し、そのまま死んでしまう。この時清子が本当に思い直したのか、あるいは聡が生きている方が復讐になると考えたのかは定かではないが、叔母の悪し様な清子への態度を見るに、清子が当初からそこまで悪意を持っていたのか判断が難しい。私としてはわずか十五歳の少年である聡に対して、復讐の念をぶつけたことを半ば後悔していたのではないかと思うが、記して他の方の考察を待ちたい。
 クリーマとヤナ(思念)は手がかりを求めて川下の墓へ向かう。ヤナ(思念)はクリーマと手をつなぎ続けることで初めて渋谷の外へ出ることに成功する。クリーマのヤナへの強い想いゆえであろう。そして老境の上田夫人=上田聡の妻と出会う。上田夫人もまた清子への拭えない強い負の想いゆえに、ヤナ(思念)が見え、清子の幽霊と誤解する。上田夫人は自身の老人ホームに会いにくるようにヤナ(思念)に伝えるが、ヤナ(思念)は一人では渋谷の外に出られないため、クリーマに手伝うよう依頼する。クリーマは敬語に苦労して老人ホームに電話するくらいならドラゴンと闘う方がマシだというヒーローらしからぬ怯みを見せるが、渋々それを受け入れる。しかし老人ホームにそう簡単に入れない。ここでもう一工夫必要になるのだが、そこでヤナ(思念)はアキラに助力を乞うべきだと主張する。クリーマは部外者を交えるべきではないという判断とともに、プラハでヤナと一夜を過ごしたらしいアキラへの反発の心情を吐露するが、ヤナ(思念)を救うためにも止む無く受け入れる。クリーマはまだどうにも頼りないヒーローだ。
 クリーマとヤナ(思念)はアキラを見て七年前の出来事を思い出す。アキラ=仲代だったのだ。そして七年前アキラを閉じ込めから救い出したのはアキラが思い込んでいるミエコではなくヤナ(思念)であるとクリーマを通して説明し、なんとか仲間に引き入れる。アキラはヤナ(思念)に七年前の借りがあるなら手助けすべきだと考えてのことであるが、アキラの姿勢はあくまで借りを返す程度でそれ以上の強い想いは無いのでヤナ(思念)を見ることはできない。
 ヤナ(思念)とクリーマ、そしてアキラの老人ホームへの訪問は決して褒められたものではなく、クリーマは違法行為だなんだと泣き言を連ねるが、ついに計画を結構する。老人ホームに入るための計画として石を投げた瞬間、クリーマはヤナにとってのヒーローへと変貌する。その後も頼りないことこの上ないが、この時確かにクリーマはヤナのために我が身よりも優先すべきことをやってのけたのだ。
 老人ホームで上田夫人は清子への恨みを改めて強く表明するとともに、天国で聡と再び結ばれ永遠を手に入れることによって、清子に勝利することを勝ち誇る。ヤナ(思念)を清子の幽霊と勘違いしたまま行われた勝利宣言とともに、勝者の余裕かあるいは天国の聡への手向けか、すべて処分したと言って封印してきた川下の未公開作品『川を越える』をヤナ(思念)=清子幽霊に託す。これによりヤナの博士論文への道が拓け、ヤナ(思念)はクリーマの元からいなくなり、すべての物語は終わりを告げる。

 物語はここで終わるが、ヤナとクリーマの関係が『恋人』とシンクロしている以上、この後におそらくヤナはプラハで博士課程に進み、ヤナ(思念)とクリーマが手に入れた「川を越える」をその論に加えて日本への留学を果たし、二人は結ばれるはずだ。そしてそれは聡と清子が結ばれるべきではない関係であったこととは対照的に結ばれるべくして結ばれるがゆえに、悲劇になることはないだろう。日本文学を題材にした推理物の要素もある本作は快作であることは間違いないので、その後のヤナとクリーマの物語が描かれることを期待したいが、あるいは書かれない方が良いかもしれない。

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