永田希氏の二冊から考える「積読」、「書物」から「死生」まで

 皆さんは「積読」という言葉にどの程度抵抗があるだろう。個人的にはまったく抵抗が無いというといささか語弊はあるが、まさに「積読」を重ね続けているのでもはや日常でさえある。現在進行形で半年に一棹ずつ書棚が増えているわけで当然ながら全てを読んでいるわけがない。


 このように書くとある種の開き直りのように感じる向きもあるだろうが、私の場合は増える一方の書棚とそこに収められる本は、さながら物理的Google検索プラットフォームに近い存在かもしれない。


 「いつか必要になるその時」に手元に参照できる本があることが重要なのだ。ちょっとした私設私蔵図書館のようなものかもしれない。ベッドサイドで増え続けている本だけで軽く三百冊以上にはなる増殖ぶりだが、その多くは「いつか必要になるその時」を待つ本達だ。


 例えば、いつかバチカンについての探求心に火が付くかもしれないというだけの理由で『教皇庁の闇の奥』『知られざるバチカン』などが所蔵されているし、怪異物(『裏世界ピクニック』)に触れた結果として『ゴーストリィ・フォークロア』や『西洋文学にみる異類婚姻譚』にはじまり現実の狂気を描いた『異形再生』なども収められるに至っている。後者は怪異繋がりで増えた本達だ。この中で実際に最後まで読んだのは今のところ『異形再生』だけ。


 一冊が次の本を呼ぶことも多々あり、『ゴーストリィ・フォークロア』は英国怪異譚の本なので、「描かれる英国」を把握するためにと『英国庭園を読む』や『日本でもできる!英国の間取り』『中世期における英国ロマンス』などが連なり、さらには「家」テーマ繋がりで『名作文学に見る「家」』や、果ては『アレクサンドリア・プロジェクト』といった都市計画にまで及ぶ始末である。


 こういった本の増殖はとうぜん新書だけではなく古書市で発掘している結果だ。古書市も漫然と巡っていてふと目につく本もあり、一方で自身が「何かに関心を持ちそうだ」という意識を持って巡ることで、自ずと目に入る本も変わってくる。私自身の関心の持ち方や「持つかもしれない」という直感はかなり幅が広く曖昧なので、結果として本の増殖は様々なジャンルに渡りつつ、時には集中的に買い集めるということもある。もちろん多くの本は「いつか必要となるその時」まで閉じと開かれの間に置かれることになる。つまり「積読」だ。


 これをシンプルに収拾欲や知識欲に帰結させるのは容易いが、おそらくそのどちらでもありどちらでもないのだろう。前者であれば「いつか必要になるその時」意識は不要だし、後者であればわざわざ買わずとも図書館に行けば済む話でもある。そうしないのは、「いつか必要になるその時」に手元に物理的に存在するという一点の利便がほぼあらゆる要素に勝るからなのかもしれない。少なくとも「どのジャンルにどのような本があるか」自体は背表紙で分かるし、その本の引用文献などを用いてそのタイミングからあるジャンルを開拓していくなどということもできる。


 その状態が良いのか悪いのかは判断が分かれるだろうが、「積読」という言葉に後ろめたい気分を抱く人がいるのであれば、私のように開き直っても良いだろうし、『積読こそが完全な読書術である』を手に取ってみると良い。「閉じと開かれのあいだ」という良いキーワードは本書のテーマの一つである。


 さて、「いつか必要となるその時」が人生で訪れることもあるだろうし、その場合はその人にとって「読まれない本」となる。積みっぱなしのままの積読ということになるわけだが、『積読こそが完全な読書術である』の著者永田氏はここからテーマを掘り下げて『書物と貨幣の五千年史』を続けて刊行している。位置づけとしては前著でオミットしたテーマを改めてまとめ直したという塩梅であり、後者のテーマは「ブラックボックス」がキーワードである。


 ただしこの本は一般的なテーマ別の通史というわけではなく、そのテーマに基づき人類史の中でそれらがどういう役割・機能をはたしてきたのかといった点に焦点が当てられている。「不可視化されるもの」≒「ブラックボックス」という位置づけだ。


 本が歴史上どのような形態の変遷を経てきて、それがどう塊収されてきたのかという点に興味がある場合は、もしかしたら『図書館巡礼』を読むのも良いかもしれない。一方で情報学として意味・価値をどう扱ってきたのかという点については『書物と貨幣の五千年史』の方が適切だと思われる。『図書館巡礼』は本稿で取り上げる中では珍しく最後まで読んだ本でもあるので断言するが、こちらもお勧めではある。

 人類史における書物・貨幣の在り方を「ブラックボックス」とした場合(詳しくは是非本書にあたって欲しい)、一人の人生における「ブラックボックス」は何だろうか。私自身十代初よりこのテーマの最大なものは常に「個人としての死」であり続けた。今後もあり続けるだろう。

 自身の死を自身は体験することは本質的不可能である。万人に開かれていて同時に万人に閉じている、経験不能な行為である。ダミアン・ハーストの有名な『生者の心における死の物理的な不可能さ』(アート作品)を知るはるか前から自明過ぎるほど自明でありながら、決して経験できない「ブラックボックス」である。数多の哲学者がテーマに挙げ、数多の宗教が避けずに触れざるを得ないテーマである。しかしこのようなことを四六時中考えていた子どもは、よく考えると扱い辛い子どもだったでしょうね……


 「積読」と「死」が結びつくと、それは文字通り死蔵であり、それが別の誰かに受け継がれていくことが、結果として五千年史に繋がる気もするがいささか飛躍し過ぎだろうか。というわけで、御多分にもれずこのテーマでも数多の積読本があるのだが、ベッドサイドの積読本としては『生と死をめぐる思索』だろうか。『グノーシスの神話』と『人類はなぜ<神>を生み出したのか』の二冊は読んでしまったので未読というわけではない。

 世の中には三十年かけて一冊の小説を読むとか、あるいは一生かけて読み終えなかったといった逸話もあるくらいなので、読めないこと≒「積読」或いは「ブラックボックス」を気にしても仕方がないので、恐らくこれからも気が向くたびに本を積み続けていくに違いない。

 最後に本稿で取り上げた本を可能な限り入手できる形で以下にまとめておくので、何か気になった本があれば、ぜひ皆さんにも手に取って頂きたいと思います。積読でも構いませんから。


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