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主人公ヤナの死と再生による三船・三島からの卒業 『シブヤで目覚めて』補論

 全力読解と題しながらいろいろ大事なことを見落としていたぞ、ということで早速補論です。重要なモチーフに言及できていませんでしたが、死と再生による成長というポイントがすっかり抜けていました。

 まずヤナが黒澤明『酔いどれ天使』の三船敏郎(『酔いどれ天使』の松永役)に入れ込んでいることが描かれています。同作の松永は結核におかされながらも、自身から離れていってしまった奈々江を取り戻すべく岡田というライバルのもとに押し込み、結果殺されてしまいます。そんな松永を治療していた医師が真田です。これは川下清丸=上田聡が肺炎にかかり、それを惹きずりながら結果死んでしまうことと重なります。

 川下は自身を一度は拒絶された清子を追い求め、清子が死んだ後もその想いから解放されずに死んでしまうのですが、肺炎ではないものの、川下の清子への想いという病から解放しようと力を尽くしたのはその妻幸子です。幸子が医師真田の役割だとした場合、『酔いどれ天使』の最後で死んだ松永を皮肉交じりに哀れ悼んだことと、最終盤にヤナ(思念)を清子の幽霊だと誤解したまま、毒舌を持って相対し皮肉を飛ばした場面は『酔いどれ天使』のオマージュであるといえます。

 一方、死と再生により成長するモチーフは対照的です。清子に囚われたままの川下は結果死んでしまうわけですが、その川下に囚われていたのが他ならないヤナです。死と再生のモチーフとしては、アキラが閉じ込め事件で半死になりながら生還しますが、完全には復活できず治療として窓の写真を撮り続けます。飛行機に乗れるほどには回復していたアキラですが、決定的な復活の瞬間を迎えます。それが廃墟での枠だけになった窓を撮影した終盤の場面です。この写真の対象となった窓がすでに枠だけになっている点がポイントで、ガラス越しの光景を撮影し続けた結果、ついにガラスを通さない写真を撮ることになります。過去を克服し現在、現実と対峙できる力を回復した瞬間として描かれています。

 ではヤナはどうでしょうか。ヤナは川下の肖像画(写真?)をピン止めするほど入れ込み、川下の死が自殺であったことに激しく動揺するほどです。加えてその後にクリーマがプラハを離れることになり、さらに精神的にも参ってしまいます。これを乗り越えるには、いったん死んで再生する必要があります。そのプロセスが廃墟での殺されるかもしれなかった瞬間とそれを無事乗り越えた場面で描かれます。この瞬間、川下の死の真相がトラウマ的影響を与えたことから決定的に克服したと捉えることができます。

 その克服の場が社会主義時代の工場の廃墟です。社会主義時代に灰色一色だったその場所は、『酔いどれ天使』がモノクロ映画であったことと重なります。全力読解で社会主義時代に触れた部分はエッセンスだと述べましたが、ヤナが川下という過去の時代に囚われていたことを考えると、チェコにおける過去=社会主義時代と捉えることができ、入れ込んでいた三船敏郎から改めて「現在」のクリーマに心を置き直すために必要な象徴的場所だったと考えるべきでしょう。そこで一度死んで再生することに意味があります。

 もう一人の重要人物クリーマはどうでしょうか。クリーマはプラハを旅立つ間際のヤナとのコミュニケーションに強い後悔を抱きます。この過去も克服されなければなりません。クリーマは一見死と再生のプロセスを経ていないようにも見えますが、象徴的な死への接近を果たしています。川下=上田聡の墓への訪問です。このプロセスがクリーマにとって過去を克服する重要な場面です。このプロセスを経て、死と再生を疑似的に経験したクリーマはヤナの王子さま=ヒーローになるべく奮闘することになります。ただしクリーマのこの経験は自身に直結する経験ではないため、その後のクリーマも頼りない言動が絶えないのですが、最後の描写は示唆的です。ヤナ(思念)がクリーマの元から消えたことで、クリーマとヤナとの関係をやり直すという再生は物語の「後」に持ち越されることになります。そこまで完全な復活はお預けというわけです。

 死と再生のモチーフはよくあるモチーフですが、それゆえに『酔いどれ天使』の三船敏郎である必要性があったというわけです。もう一人ヤナが入れ込んでいたのは三島由紀夫ですが、三島由紀夫の自殺と川下の自殺も当然重ねてみるべきでしょう。三船からの卒業は三島からの卒業でもあり、ヤナとクリーマの関係が進展する前触れと読むべきでしょう。

 本作は読者に深い読みを求めてくる快作なので、まだまだ見落としや言及できていない要素はいくつもありそうです。何度も読み返すうちにまた補論を書くことになるかもしれません。

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