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【レビュー】「あしたのあたし」大谷能生(音楽/批評家)

 大谷能生による、本公演に向けての応援レビューです。ありがとうございます!

 九〇年代から〇〇年代にかけて世界的なムーヴメントとなった、いわゆる「音響」的音楽のオリジネイターのひとりであり(2003年アルスエレクトロニカ・デジタル・ミュージック部門ゴールデンニカ受賞)、また、「サマースプリング」(太田出版)などの著作で作家としても活躍する吉田アミは、近年、舞台芸術の分野において独自の創作活動をこころみはじめている。
 飴屋法水が二〇一〇年のF/Tで発表した「わたしのすがた」においても、吉田のヴォイスは決定的な役割を担っていたが、声そのものを物質的に提示する超高音の「ハウリング・ヴォイス」によるヴォイス・パフォーマンスと、小説および詩、論考といった「言語」へのかかわりとの両面を持った彼女の世界は、徹底的に即物的な残酷さ・暴力さと、しかし、それでも消えることのない(消すことのできない)根源的な感情と物語とがぶつかりあいながら展開されてゆく。
 二〇一八年の十一月に三鷹scoolで発表された新作「あしたのあたし」は、出演者にサウンド・アーティスト、パフォーマーとして知られるYuko Nexus6、フリーで活躍する新進女優の三宅里沙、清水みさと(オーストラ・マコンドー所属)、という三人の女性を配し、共同演出に飴屋法水の作品の多くに関わり、出演している立川貴一を迎えて制作された。
 まず目を引いたのは、舞台前面、客席からも見える同じ空間に音響および照明オペレーションの卓が作られ、吉田・立川両者が公演中にそこから音と光の操作だけではなく、舞台上にサイリウムを投げ込むなどの積極的な介入をおこなうという「演出」である。
 演出者二人は登場人物とほぼ同等の存在感をもったプレイヤーとして、舞台の内か外か判別できない曖昧な場所から物語に「物質的な」介入をおこなう。それは進展している物語をときに暴力的に断ち切り、ときに装飾して感情を高め、会場全体をひとつの「出来事」に巻き込む作用を生み出していた。50席ほど作れば一杯の会場の大きさを逆手にとった演出であるが、舞台上の「表象」を生のままの時間と触れ合わせるあたらしい発見として、プロセニアムのある会場でも見てみたいと感じた。
 こうした「出来事としての時間」のなかで、Yuko Nexus6が長年にわたって記録していた「録画日記」を三宅、清水が交互に再現するシーンが訪れる。そもそもこの作品は、数年ぶりにYuko Nexus6と再会した吉田が、その時期に彼女が撮りためていたこれらの「日記」を見せてもらったところからはじまっているという。彼女はここ数年間、闘病中であった。本人が見守るなか、ヴィデオに残された彼女の言葉と口調を仕草を台本にして、三宅と清水のパフォーマンスがおこなわれてゆく。引き伸ばされ、反復されてゆく「過去」の層が、ゆっくりと舞台の上に折り重なり、現在を複雑に多層化してゆく。実際のヴィデオも投影され、そしてまた次の「闘病」が暗示されたところで、作品は終了した。ワーク・イン・プログレス公演ということで、作品の完成度は3~4割、とのことだったが、十分に充実した内容のステージであったと思う。冒頭、三宅と清水が対照的な演技をおこないながら、音楽とともに移動を繰り返すシーンも、躁/鬱の点滅と引き伸ばしを圧縮してみせた見ごたえのある導入だった。完成ヴァージョンの上演を期待したいしています。

(おおたによしお・音楽/批評家)

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