ipadに残ってた

呼吸法
春は通り過ぎていく。
立ち止まっている時間は少なく、冬から夏へと通り過ぎるだけの通り道だ。背中が焼ける。
三月に買った黒いジャケットは気に入っているけれど、春の光線には不向きだった。大抵の人は次の日の天気を気にして洋服を選ばない。昨日からきているこの服だってそうだ、昨日は確か20度もなかった気がする。太陽の光はジャケットに吸収され、じんわりと背中に広がる。
ビルとビルの間を風が勢いよく通り抜けた。空気はまだ太陽の熱を持たず、どこか冬の冷たさがまだ残っている。朝の光は青く澄んでいて、影は輪郭を強く持たず、新宿の街は平面的で、一つのネオンも光っていない。日陰と日向の空気が絶えず混ざり合って、気温が少しずつ上がっていく。
朝とはいえ、人は大勢いて、ビルの間の道を通り抜けて、ここからは見えない会社に向かって歩いていく。僕たちは流れに逆行する少数派のうちの一組で、大勢に逆らって歩くのに夢中で、会話は繋がらない。暑いとか、晴れてるとか、感想みたいな言葉だけで、投げ合うボールをお互いに拾わない。
四月の終わりだというのに初夏のように暑い日だった。彼の着ているTシャツが、とても薄く、彼の体の細さを浮き彫りにした。風が吹くたびに膨らんで、彼の骨っぽい身体はとても軽そうで、そのまま飛んで行きそうだった。
僕は熱を逃がすのに精一杯で、とてもじゃないけれどこの身体は地面を離れることはできないだろう。


光る画面の中に、彼の指のシルエットが浮かんだ。
その下に隠れていた文字は「新宿」「ホテル」「同性利用」の文字で、地図と小さな写真が並んでいた。
「この近くにあるはずなんだけど」
彼がそう言いながら手繰るように画面をいじる。クルクルと回る画面の外には無数のホテルがあった。大小問わず、ここはそういう街だった。
見上げれば大きなホテルの看板が、見上げなくとも大小問わずホテルの名前や部屋のイメージが散乱してる。この中から一つを選ぶのは簡単だ。どこだって大して変わりはない。僕たちに撮っては事情は違って、この無数の中から一つを選び取る必要があった。
こんなに必死に誰かとセックスをするためだけの場所を探したことはなかった。大抵、僕はデート相手の家や連れいていかれたホテル、自分が選ぶものではなく、相手に連れていかれるものだった。
彼の手の中の地図はずっとすぐ近くを指しているのに、僕たちはどこにもたどりつけなかった。これだけのホテルがあるのに人通りはまばらで、それはきっとみんなすぐに空いているホテルに入ってしまうからだった。
風の少ない夜だった。僕たちが動いている音が、姿が浮き彫りになる。こんなにうるさい街で、こんなに静かな通りがあることを知らなかった。静けさがどんどん僕らを際立たせる。恥ずかしいことをしている気がした。確かに誰か見せるものではないのだろうけれど、それ以上に誰かに見られることを恐れている。

「あれだ」
彼がそう言って指差した先にあった地味な看板は、彼がほら見てと差し出したホテルの画像とは随分イメージが違った。黄色一色で書かれたホテルの名前はAからはじまる単語だったが、それがなんだったのか思い出せない。
ねずみ色の階段を上る。自動ドアが開く瞬間、僕は思わず下を向いた。


あわびが死んでいくのを見ていた。
彼の行きたかったという海鮮居酒屋で。
新宿だというのに、店員は皆適当な服装で働いている。なぜか蛍光色のミッキーが敷き詰められたTシャツを着て。適当に飲み物や食べ物を運んできた。安いから食べてみようかと言って選んだあわびは生きていて、網の上に置かれてゆるやかに動き始めた。
「こちらでご用意するのでこのまま触れずにお待ちください」
焼き物はあわびしか頼まなかったので、僕たちはひたすらあわびがくるくると身をよじりながら死んでいく様を見るしかなかった。
「怖い、どうしてこんなものを頼んだんでしょうか」
「大丈夫、美味しいですよ」
怯える僕に彼は慣れた様子で答えた。
その居酒屋にはこれといって美味しい海産物がなく、磯臭い何かが続けざまに卓に置かれた。その一つ一つを二人で分け合っていく。
口に残る潮の匂いを、ビールで流し込んだ。口の中で泡がはじけて波打ち際のような音がしゅわしゅわと口の中に広がる。あわびはだんだんと動かなくなりはじめていた。
それから僕たちは、お互いのことを話した。なんて呼んだらいいのか、普段何をしていて、どんなものが好きか。死んでいく生物を挟んで、生きてきた自分の話をした。初対面の僕たちにはそれが必要で、相手の名前も歳も、テストの空欄を埋めていくみたいに聞いていくけれど、どこまでこの質問が続けるのかはお互いの興味次第だ。幸か不幸か、あわびが死ぬのにはかなりの時間を要した。お互いの当たり障りのない輪郭を埋めていく。大抵の人間はまず他人の外殻を作り、そこに記憶や思い出を詰め込む。外殻のないうちは他者と記憶が紐付かない。道端にどれだけおかしな人がいても、数日後には忘れてしまうのと同じように。
「もう食べられますよ」
そう言って無愛想な店員がハサミを持ってあわびを何等分かした。
そのうちの一つを口の中に放り込むと、弾力のある肉の中から、噛むたびに塩気のある汁が溢れてきた。美味しいのか、まずいのかはよくわからなかったが、海の生き物というのはこういうものかと思った。
「美味しいですか」
どうやら神妙な顔をして食んでいたらしく、彼は心配そうに僕に尋ねた。
「それなりに」
「ならよかった」
彼は美味しいと言いながら、身を一切れ一切れつまんでいった。
僕はそのままふた切れほど食べ、ほかの料理に手を出していた。食べ終わった殻の上に、緑色の球体が鎮座している。彼に尋ねると、それは肝だと言う。
「お酒が好きなら好きですよ、食べてみたければどうぞ」
差し出されたそれを僕は箸でつまみ上げ、口の中へ放り込んだ。
その味は覚えていない。多分表現できないから忘れてしまったのだろう。

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