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映画『椿の庭』 〜移ろいゆくものものと今を生きること

写真家でもある上田義彦監督による映画『椿の庭』を見てきました。
富司純子さんの美しい佇まいとシム・ウンギョンさんの落ち着いた話し方が映画全体の静けさと移ろいゆく風景と相まって、エンドロールを見終えた後、とてもいい作品を見させていただいたと感じました。

椿の庭のこと 上田義彦

あの日、僕が住んでいた家の近くの道をいつものように歩いていたら、見覚えの無い空き地に足が止まった。まわりを見渡しはっとした。
あの家が無い。穏やかな静寂に包まれていた古い家。優しい木漏れ陽を歩道に落としてくれていた大きな樹が跡かたも無く消えていた。目の前の空っぽのごろごろとした土くれに覆われた地面と、いくつかの切り株の跡をただ眺めていた。
そして想った。ここに暮らしていた唯の一度も、姿を見かけたことも、話したこともない人のことを。こんもりと繁った木々に隠れて静かに建っていた、小じんまりとして好感のもてた家のことを。
落ち着かない不思議な喪失感に占領されながら帰り道を急いだ。家に着き自然にペンを取った。庭では椿の花が木いっぱいに咲いていた。
15年前の春先。あの日この映画が始まった。
(『椿の庭 公式HP』監督より)

(以下、ネタバレを含みます)

◆try to remember

本作は、葉山の古民家を舞台に、夫の四十九日の法要を終え、相続税の問題から家を手放す決断を迫られる絹子と、絹子の駆け落ちした娘の子供(絹子の孫)である渚の暮らしが描かれる。手入れの行き届いた古民家はもちろん、春から冬にかけて映し出される木々や虫たちが美しい庭も見ものである。

相続税の問題から家を手放さざるを得ない状況であることが分かった絹子は、古くからの夫との共通の友人である清水が訪ねてきたとき、興奮気味に「思い出は物に宿ると聞いた」と話し始めて、ついには意識を失ってしまう。

「もし私がこの地から離れてしまったら、ここでの家族の記憶や、
そういうもの全て、思い出せなくなってしまうのかしら」
(『椿の庭 公式HP』物語より)

絹子が夫ともに清水によく聞かせたというBrothers  Fourの「try to remember」のレコード、夫が庭いじりをしている風景、子どもたちと囲んだであろう食卓、渚が可愛がる庭の金魚たち、生徒たちとのやり取り。
匂いから記憶が呼び覚まされるように、視覚から思い出が呼び覚まされるのだとしたら。人間は忘れる生き物だ。その人間が大事な思い出を抱えていられることが、その思い出のものたちに囲まれることが条件であるとするならば、絹子にとって、思い出の中心である家を手放すことは人生を手放すことと同義でもあるような恐ろしさであると感じさせられる。おそらく絹子は家を手放すことは自分自身を手放すような不安定さを感じてしまったのではないだろうか。

◆真実はどこにある

おそらく絹子と渚が共に暮らし始めてまだ月日は経っていないように感じる。春に散歩へ出かけようと言う絹子に渚は素直に従い、夏に西瓜を差し出す絹子に渚は目を伏せるだけで応えると絹子は「そんなところまであの子(娘)に似なくて良いのに」と決定的な拒否の言葉を受け取ることもないまま心地良い関係を続ける。
それが、夏に絹子が倒れた後、秋に処方された薬を飲んでいないことを渚が知ってから、初めて喧嘩をしたのではないだろうか。落ち葉が降り積る庭を前に、絹子が「渚、庭の落ち葉を掃いてくれないかしら」と問いかけると、渚は「今日掃いても明日また積もる。それにこの家売ってしまうんでしょう。そんなことより薬を飲んで自分の体を大事にしてよ」と返すのだ。
その後、絹子は一人落ち葉を掃き始め渚もついには手伝うのだが、その衝突が二人の仲を深めたように思えると同時に、家と共に終えたい絹子と、家から離れても元気にあってほしい渚のすれ違う考えや思いが描写されていて、見ていてとても辛くなるシーンであった。

渚は「真実は自分と一所にある」という理解に惹かれているように見える。それは渚の母が駆け落ちした先の海外で生まれ、両親を失った後に絹子を頼って日本に来たように、自分のいる場所が自分の生きる場所であると考えているからかもしれない。
そんなことをふと考えたのも、渚が自室で詩を朗読する場面で与謝野晶子の「歌はどうして作る」を読んでいるからである。
絹子は思い出によって自分が形作られているからこそ家という場を大切に守りたいと思っているが、他方、渚は自分が生きる場を作っていくという点において、相違する考えがあるように思えた。

歌はどうして作る。
じつと観(み)、
じつと愛し、
じつと抱きしめて作る。
何を。
「真実」を。

「真実」は何処に在る。
いつも自分と一所(いつしよ)に、
この目の観る下(もと)、
この心の愛する前、
わが両手の中に。
(与謝野晶子「歌はどうして作る」)

◆移ろいゆくものものと、今を生きるということ

本作の冒頭は、庭の金魚がなくなり椿の花に包まれて埋葬されるという、死の匂いを感じさせる不穏な始まりであった。
春に咲いた花々は夏の生い茂る木々に変わり、夏に生まれた虫たちは死んでいき、秋には落ち葉が降り積もる。そんな移ろいが庭を通じて写しとられる。

だからといって暗い情景が続くわけではなく、それらの移ろいとは対照的に、今一瞬を生きる虫たちが差し込まれ、今いっときを生きる姿もたくましく写ししとられている。それらは絹子と渚が駆けっこをしたり、桃や西瓜を食べたりするシーンも同様に、生きる姿が愛おしく切り取られる。中でも、個人的には夏の積乱雲が登る空を写しつつ、外から帰ってきた渚が水をごくりごくりと飲み干す音を重ねるシーンはとても美しかった。

生命は人も植物も虫たちも今を生きながら、季節とともに移ろいゆく。そうして誰かの目に留まった生命は埋葬され、誰の目にも留まらなかった生命も等しく消えていくのである。
それは家も同様で、主人を失い役目を終えた家は壊されることになる。
梅雨も初夏も開け放たれ、夏にだけ虫が入らないよう閉められていた玄関の戸に、渚が鍵をかけるシーンはとても物悲しく、鍵の音が響いた。

家の売却を仲介する税理士チャンが、渚たちの去った家を物悲しく見つめるシーンで、私は強くチャンに感情移入をして見ていた。家に住んでいたわけではない、それでもこの家に愛着を持ち大切に思っていた家が取り壊されることを知り、チャンからは喪失の表情から読み取れる。
自分が生きる上でなんとなく見てきた風景、ひっそりとお気に入りだった建物たちが、ふと目につかなくなった瞬間の喪失がそこにはあった。

あらゆるものは移ろいゆく。それを抱えながら私たちは生きている。