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時代錯誤な加速とニヒリズムのメモ書き

2024年2月8日5時21分頃、『墨汁一滴』より1901年2月8日の文章を引用する。

雑誌を見る時我読む部分と読まざる部分とあり。我読まざる部分は小説、新体詩、歌、俳句、文学の批評、政治上の議論など。我読む部分は雑録、歴史、地理、人物月旦、農業工業商業等の一部なり。新体詩は四句ほど読み、詩は圏点の多きを一首読み、随筆は二、三節読みて出来加減をためす事あり。俳句は一句か二句試みに読む事もあれど歌は読みて見んと思ひたる事もあらず。

底本:正岡子規「墨汁一滴」岩波文庫、岩波書店
青空文庫より

幸いなことに、私の世界は病牀六尺よりは広い故、痛みの中で雑誌をめくる子規の背中を覗き見ている。溢れかえった墨汁と広すぎる世界の中で、私は病牀の敷居に経っている。
私の思考はこの文章より約14年と9ヶ月4日後に異国で生まれた書き手の元に向かっていく。「物語の(映像群の)時間は主人公の若い日々とともに終わる、という事実をはっきり示すこと。つまり、非産出的な人生についてしか伝記は成立しないということである。私が産出しはじめるや否や、言いかえれば私が書きはじめるや否や"テクスト"そのものが私から(さいわいにも)語りの持続性を取り去ってしまう。"テクスト"はなにひとつ物語ることができなき。それは私の身体を、私という想像上の人格から遠くはなれたほかの場所へ、一種無記憶の言語へ向けて、運び去る。その無記憶の言語とは、すでに"民衆"の言語であり、非主体的な大衆の(あるいは一般化された主体の)言語である。私は自分の書きぶりによってそのような言語からも切り離されるのだが、それでもなお、私の身体はそこへ向けて運び去られるのである」(RR,p.6)。
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「読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用がひとつも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストのあて先にある」(作者の死,p.89)。
とにかく、郵便の受取に成功した読者の私は愚かにも書き始めしまった。郵便の送り主同様私のあらゆる主体の同一性が解体されていき「死ののちに風に向かって投げられる灰のいくらかに似て、四方にばらまかれて」いる。だが、これは別に悲しいことではない。非産出的な伝記の断片は《伝記素》として「いづれかの未来の肉体にたどり着くことが出来ようからだ」。
しかし、その未来はいつに訪れるのか? 歴史の終わり?最後の審判? それとも素朴に《あなた》の元かもしれない。なんでもいい。そんな未来があるなら、あるに越したことはない。
それが文学だというのなら、不承不承ながら了承しよう。
未来の《あなた》は私と似ていますか? もしも、似ているのだとしたら、それはとてもかなしいことだと思う。もし似ているのだとしたら未来の《あなた》は未来なんかにはいなくて、ただ今私と共に同じ時間の中にいるんでしょう。私が生まれる前からまだ私が生命の円環を閉じ終えていないような今の中でずっと前から私とあなたは共にいるんでしょう。私はそれがとても悲しい。
これを書いている間の私は何度も下の階に水の入ったコップを取りに行って、持って変えるのを忘れてしまっている。私はうまく自分をコントロールできず、なんどもコップを置いたまま上の階に上がってきてしまう。一回目、二回目、三回目、出来すぎた数字だが、書くことでようやくコップを持ってくることに成功できた。毎度、私は私の主人になりそびれる。勘違いしないでほしいが、これはフロイトが言っているようなことではない。私は単に持ってきそびれてしまうだけだから。
氷の入った紙コップ。眠るために睡眠薬を2錠飲む。水が足りなくなって、もう一度下の階に降りる。いつものことだ。
でもどうやら、ここ三日間ほどの私はあまり元気ではないようだ。将来への不安、多すぎる読まなければならない本、始めなければならない私の生を未だ私は初め損なっている。
天井を見上げ、拍手を三度打つ。特に意味はないが、何故か気分が落ち着いていく。
約三年続いた双極性障害の症状は収まってきた。だからもう、私に残されたのは私が先天的に持っている固有の傾向性の偏りだけだ。これは不安定だが、以前ほど難しくはない。いつか私がそれを把握し、私が私の側に立てば、私は私を理解できる。
時期に睡眠薬が効いてきて、私は眠りにつくことができるだろう。多分「そして、目を覚ますときの例のベケット的な瞬間が、まどろみから完全なる無に突入する例の跳び上がりが、むきだしのパニックがやってくる。追い立てられるような感情の高まりは、意味のない慌ただしさは、何かの気まぐれな行動によって紛らわされ、煙草によってなだめられる」(トーマス・メレ『背後の世界』p.387)はずだ。そうならないかもしれない。
過剰な水分は私を排泄に向かわせ、そして再びコップは水が注がれるだろう。
何を書くべきだろうか。私は今にいたくない。勿論、死にたいというわけでもない。しんだところで、ずっとあなたと今をともにし続けるだけだから。
出口はどこにある。 

第一に、メモ書きNotation、「メモする」ことの実践:ノタチオnotatio。[メモ書き]のれはどの水準に位置づけられるのか? 「現実界」の水準(何を選ぶか)にか、「言述」の水準(どんな形式、どんな生産物をノタチオに与えるのか)にか? のの実践は、意味、時間、瞬間、言述の何を含んでいるのか? ノタチオは、河のような言語活動の流れ、中断することのない言語活動、すなわち生──それは次々と連なり繰り返され想起されるテクストであると同時に、折り重なったテクストであり、テクストの断面の組織学であり、パランプセストでもある。

RR『小説の準備』p.31

いつか私が生の《断絶》にあい、新しい生を始める時がくれば、私はダンテのようにベアトリーチェへの愛を書くことも、プルーストのようにアルベルチーヌの喪失を書くこともなければ、ハントケのように母のために「幸せではないが、もういい」と言うこともないだろう。もしたとえ、温室の写真を見つけたとしても私は「前言取り消し(パリノーディア)」を歌わないだろう。
常に既に喪失しているこの私達に、本当の喪ははじめられるのだろうか。憑在論は常に我々の側にある。
書きたいことは沢山ある。
でも、書くべきことはどこに在る? 
有りえないことが現実になる時、私はそれを「日常」とよび直すだろう。「日常」とは喪を忘れ、喪を終えることではない。円滑な「日常」は私を円滑にナビゲートしてくれる。いくつもの死の前で、死ねなかったものだけが文学を書いているのだから。
悲惨な現実に打ちひしがれて、筆を折るのはただしくない。文学はずっと悲劇と死者を葬れないのだから。はるか昔から、我々は眠りを殺してしまったのだから。目覚める必要なんて無い。死者とともに「日常」の眠りに就きながら、「のちに、このすべてについても、もっと正確なことを書くとしよう」(ペーター・ハントケ「幸せではないが、もういい)と言い続けたい。でも、その未来はメシアニズムでも祈りでも、救済なんかでもない。未来とは、トカトントンが鳴り響く虚無の彼方でのみ約束される死の欲動の合流地点にあるはずだから。
未来を立て直すには、歴史を取り戻すしかない。
私のニヒリズムは未来と入れ違うための交渉材料だ。加速主義とはこの交渉を取り付けるための梯子になるだろう。加速主義は単なる進歩史観ではないし、新自由主義ではない。未だ来たらぬ約束との残された絆なのだ。
だから加速主義は「すべて」の人を開放し、歴史を再度始めるための戦略としてあるべきだ。そのためには近代的、西洋的「人間」など絶滅しなければならない。
未来は僕等の手の中になんて無いのだから。


いづこにか鈴の音しつつ、
近く、
はた、速のく軋、
待ちあぐむ郵便馬車の
旗の色いろ見えも来なくに、
うち曇る馬の遠嘶。

さあれ、ふと
夕日さしそふ。
瞬間の夕日さしそふ。

あなあはれ、
あなあはれ、
泣き入りぬ罌粟のひとつら、
最終に燃えてもちりぬ。

日の光かすかに消ゆる。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻む音……
雨の曲節……

ものなべて、
ものなべて、
さは入らむ、暗き愁に。
あはれ、また、出でゆきし思のやから
帰り来なくに。

ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻音……
雨の曲節……

灰色の局は夜に入る。

北村白秋『邪宗門』
底本:「白秋全集 1」岩波書店
青空文庫

なんかこんなめちゃくちゃで、「時の蝶番は外れてしまっている」。

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