鏡と水面を切り分ける常識人間たち

2019年に刊行され、大ヒットとなった「ケーキの切れない非行少年たち」という本がある。この本の主張に関しては、なるほどと思うところも多く、特に異論があるわけでない。今回批判したいのは、「ケーキの切れない非行少年たち」に向けて出された問題だ。

この動画の中で、非行少年たちに向けて出された問題として、「真ん中の2つのパネルが、鏡と水面に映ったらそれぞれどう見えるでしょうか?想像して書きましょう。」というのが紹介されている。この問題に対して、ある非行少年が描いた水面に映った三角形は、パネルをそのまま写しただけで正しく描けていないとしているが、これを当然のように言い放ってしまうことに違和感を感じずにはいられないのだ。
違和感を感じる原因は、そもそもの出題の仕方にある。まず、この問題の前提条件が書かれていない。この問題として出されている2つのパネルが地面に対して垂直に立っているのか、また、鏡はパネルが移りこむように、パネルに対して若干角度が付けられているのか。この前提条件が違えば、答えも全く違うものになってしまう。なるほど、この問題は知能を測るために作られたものであって、そんな細かなことは気にする必要はないという意見もあるだろう。確かに知能を測る目的は、この問題によって果たされるため、その点においては何も言うことはない。しかし、この問題によって、いかにこの問題の出題者は常識に囚われているのかが、ここで露呈してしまっているのだ。
常識に囚われているのはそれだけではない。2つのパネルの横にあるものは鏡としているのにもかかわらず、下にあるものは、あえて鏡ではなく水面と表現してしまうのだ。どちらも鏡にしてしまってもいいところを、なぜか下にあるものだけは水面にする。つまり、鏡は横にあるもの、水面は下にあるものという常識に囚われているのである。出題者としては、2つのパネルの下にある光の反射がしやすいものを「水面」と表現することで、問題を解く人が「金閣寺」を想像して問題に答えやすくなるであろうという意図があって、このような出題の仕方にしたのかもしれない。しかし、これは常識に囚われた常識人間だけの理屈だ。すべての人にこの理屈を押し付けて、この問題に出題者が意図したように答えさせようというのは、あまりにも乱暴な話なのだ。
また、りんごをミキサーにかけて3等分にするという発想を「頭が固い」回答であるとするのは何事か。そのような回答も、1つの立派な回答であり、決して間違った回答でないどころか、普通の人では思いつかないような、極めて柔軟な発想によって生まれた回答なのではないのか。そのような回答を「頭が固い」とする人たちこそ頭が固く、常識人間ではないだろうか。
こうしたことから、むしろこの常識人間たちの方が問題なのではと思ってしまうのだ。このような常識人間たちが世の中の大半を占めていて、世の中を動かしていると思うと、なんとイタい世の中なんだろうと思ってしまう。
ときに常識人間は自分のことを棚に上げ、非行少年の常識と外れた行動ばかりを見つけては、イタいんだよと言う。しかし僕にしてみれば、そうゆう常識人間の方がイタい。自分は常識を守っているから、自分は一丁前だと思って常識から外れた人をバカにする。そうして自分に矛先が向きそうになりそうだと雲隠れ。ただただ他人と比較して、常識に縛られて、常識から外れた人はバカにして過ごすことに何とも思っていない。常識とは恐ろしいものだ。


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