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「空気を読まない」ことは良くないことだとする異常な社会

空気を読め

学校でも教えられてきた。もちろん言葉そのまま「空気を読め」と教育されてきたわけではないが、終始一貫して、その教育の背景に「空気を読め」という、でかでかとしたメッセージがそこにはあった。

”いやいや、教育云々の前に、そんなの当たり前だから。”
”「空気を読む」という常識もわからないやつは人間としておかしい。”
そんな声も聞こえてきそうだ。

確かに空気を読んで周りと行動を合わせれば、波風を立ててしまうことも少なくなるし、人に迷惑をかけてしまうこともなくなるかもしれない。しかし、「空気を読む」ことを重要視するあまり、自分の本当の気持ちを押し殺し、ありのままの自分で生きられないという「つらさ」を抱えたままになっている人たちも多いのではないだろうか。

  • 「空気」にしばられて身動きがとれなくなっている。

  • 「これやって当たり前だから!」という価値観に支配されている。

  • 「何をやるのが正解なんだろう」、「普通はどうするんだろうか?」と常に周りを気にして行動している。

そのような状態が長く続き、徐々に自分の身を滅ぼし、ついには自死を選んでしまったとみられる人たちも多くいる。

「空気を読む」という常識に全く疑問を持たず、いくら切っても同じ金太郎飴のような量産型人間として生きる人を事実上、賞賛するような社会。
これは、そのような社会の方が異常なのではないだろうか。

「空気を読む」ことが大切とする人たち

「どうしたら空気の読めない人に苛々しないですか?」という質問に対して、こんな回答があった。

私は「空気を読む」事は生きていく上で、とても大切なことだと思う。
というより、空気を読めなくて良いことはないと思う。

まず「空気を読む」という抽象的な言い方がどういった事を指すのか。

私が考えるに、

1)自分の置かれている、状況、立場を正しく把握していない。
2)自分の周りの状況を理解、把握していない。(半径2m以内程度)
3)上記の2点から、状況に見合った正しい発言、行動をとることができない。
故に自分が「勘違い」をしていることすら気付かず、知らず知らずの内にとんちんかな言動を取り、結果周りに迷惑をかけている。


何故「空気を読めない」のか。

まず、私が今まで経験した 「空気を読めない」人の特徴を上げてみると・・・

1) 人の話を聞かない。(聞いてない)
2) 周り、他人の行動を見ていない(見れない)
3) 物事を「逆算」して解決するのが、異常に下手。 手際が悪い。 →結果同じ間違いを繰り返す。
4) 物事の優先順位をつけるのが非常に下手。
5) 上記の事を踏まえて言うと、周りと同じ流れに乗れない。
話が噛み合わない。 当然人の気持ちも分からないので、察することができない。
人との距離を正確に測る事も出来ない。


まぁ 最初に述べた内容に似ているが、
とりあえず、周りに迷惑をおかけしている事は間違いない。


個人的に言えば、そういう人と同じ場にいると非常に不愉快(イライラ)な気分になる。

よく「天然」と呼ばれる人も「空気を読めない」に当てはまるだろう。

自分が一つ可能性として考えているのは、こういった人たちは
一種の「病気」だと思う。
本当に「一種」の学習障害と思う。
もちろん十把一絡げには出来ないが、可能性は否定できないと思う。
自分で分析をしといて何だが、日本語を理解していないとしか考えられない。
そういった検査というか、試験などがあれば確実にひっかかると思う。
もし何も異常が見られないのであれば、検査方法に問題があるのだろう。
KYというのは、目に見えているものであるが、実体は見えない。(肉眼で判断するものではない)
したがって、見過ごしがちだが、病気と言っても差別でもなんでもなく、
決して過言ではないだろう。


もう一つの特徴は、他の人に比べて「鈍感」であるということ。

おそらく上記に述べた事から、今自分がどういう状態(周りに迷惑をかけている)
事を把握していないので、何事もないような涼しい顔をしている人が多いように見受けられる。

逆に空気を読める人は、現状を全く把握してなければ涼しい顔などできないと思う。
状況にもよるが、自分の置かれている状態を把握していなければ、正しい
言動に結び付かないからだ。

話を戻す。
「鈍感」が全て悪いとは全く思わない。
しかし、もし「敏感」な人が周りにいたら?
「鈍感」な人からすると普通の振る舞いだとしても、
「敏感」な人から見ると、え?と思われる事をしているかもしれない。
そこが問題なのだ。 「鈍感」な人はそこに全くと言っていいほど気づけないのだ。

人には、誰でも触れてほしくない部分がある。
それを「空気を読める人」は絶対に触れない。 地雷を避けて通るように。
当然「空気を読めない人」は、地面から顔を出している見え見えの地雷にすら
平気な顔をして踏んでいる。 唯一羨ましいのは、その爆発で怪我していることに
気づいていないことぐらいか。

自分が気にしないから、他の人も気にしないとは限らない。
KYと呼ばれる人はそのことすら気づいていないのが現状だろう。
悪気がないから、一見罪がないように見えるが、実はこれが一番始末が悪い。
悪気がなくてやっていることほど、周りの人間は指摘しづらいものだ。


よって「空気が読めない人」は、
*まず人の話をしっかり聞く。
(理解するという意味、実はこれが出来ていないのに流す人が非常に多い)

*半径2m以内であれば、実際会話に参加していなくても、
聞き耳を立てそれを理解するのも必要なことである。

*そして発言、行動に移す前に一度しっかり自分の中で確認をする。
(涼しい顔して、意外と横着な人が多い。 だからミスが多い)


あまり書いてもしょうがないが、とりあえあずこの3点をすれば
そこまでずれた言動にはならないと思う。
ただ自分ではしているつもりで、結局理解していないこと
すら気づけない場合は別だが・・・

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1153474446

「空気を読めなくて良いことはない」というが、そんなことはない。「空気」に縛られず自由に生きられるというメリットはかなり大きい。「空気」に縛られて生きている人は、そんなのずるいだろ!と思うかもしれないが、なら何でやんないの?と本気で思っている。別に選ばれた人しかできない特権でもなんでもない。自分がするかしないかだ。

”「空気を読まない」と「空気を読めない」は違うだろ。あえて「空気を読まない」選択をしているならまだしも、最初から「空気を読めない」人はダメだろ。”
そんな社会は、なおさら異常ではないだろうか。人格を否定する社会。先天的に「空気を読めない」人を弾圧する社会。そのような社会の中で、生きづらさを抱えている人たちも少なくない。

苛々するとか、不愉快になるとか、勝手になってればいい。相手の意に反することをすれば、程度の差こそあれ、その相手は不愉快になる。そんなのをいちいち気にしていては、この身が持たない。相手を不愉快にさせないようにずっと気を使っていれば、相手のコントロール下に置かれ、やたらめったらに自分を虐げてくるやつも中にはいる。そんなやつのために誰が気を使ってやるか。

”人様に迷惑をかけるな”
よく言う言葉だ。究極、人は存在しているだけで「迷惑」なのだ。存在していれば場所をとる、酸素を消費する、邪魔になる。極論に聞こえるかもしれないが、「迷惑」とは何かを突き詰めて考えていけば、そのような結論に達してしまう。そうやって思い詰めて、「自分は存在しない方がいい」という結論に至って自死を選んだとみられる人も多くいる。

「普通がいい」という病

しかし、人様への迷惑が許されるものがある。「普通になる」ということだ。普通になれば、みんなと同じ行動をとるわけだから、仮に迷惑な行動であったとしても、「みんなやっていることだから」で許されてしまう。

泉谷 閑示さん著の”「普通がいい」という病”という本がある。

まさに自分が言いたかったことが、この本の中に書かれていたし、自分が知らないことも多く書かれていて、とても勉強になった。「クライアントのお話を聞いていくうちに、むしろ周りにいる人たちの方が病んでいるんじゃないかと思えてくることもあります。」と、自分と同じように、個人にだけ問題を押し付ける態度をしていない人が、よりによって個人の病気を治す精神科医にいると知って驚いたし、救われた。

もう、人目を気にして生きていく必要はない。
堂々と、「空気を読まない」で生きていこう。

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