「空気を読まない」ことは良くないことだとする異常な社会
空気を読め
学校でも教えられてきた。もちろん言葉そのまま「空気を読め」と教育されてきたわけではないが、終始一貫して、その教育の背景に「空気を読め」という、でかでかとしたメッセージがそこにはあった。
”いやいや、教育云々の前に、そんなの当たり前だから。”
”「空気を読む」という常識もわからないやつは人間としておかしい。”
そんな声も聞こえてきそうだ。
確かに空気を読んで周りと行動を合わせれば、波風を立ててしまうことも少なくなるし、人に迷惑をかけてしまうこともなくなるかもしれない。しかし、「空気を読む」ことを重要視するあまり、自分の本当の気持ちを押し殺し、ありのままの自分で生きられないという「つらさ」を抱えたままになっている人たちも多いのではないだろうか。
「空気」にしばられて身動きがとれなくなっている。
「これやって当たり前だから!」という価値観に支配されている。
「何をやるのが正解なんだろう」、「普通はどうするんだろうか?」と常に周りを気にして行動している。
そのような状態が長く続き、徐々に自分の身を滅ぼし、ついには自死を選んでしまったとみられる人たちも多くいる。
「空気を読む」という常識に全く疑問を持たず、いくら切っても同じ金太郎飴のような量産型人間として生きる人を事実上、賞賛するような社会。
これは、そのような社会の方が異常なのではないだろうか。
「空気を読む」ことが大切とする人たち
「どうしたら空気の読めない人に苛々しないですか?」という質問に対して、こんな回答があった。
「空気を読めなくて良いことはない」というが、そんなことはない。「空気」に縛られず自由に生きられるというメリットはかなり大きい。「空気」に縛られて生きている人は、そんなのずるいだろ!と思うかもしれないが、なら何でやんないの?と本気で思っている。別に選ばれた人しかできない特権でもなんでもない。自分がするかしないかだ。
”「空気を読まない」と「空気を読めない」は違うだろ。あえて「空気を読まない」選択をしているならまだしも、最初から「空気を読めない」人はダメだろ。”
そんな社会は、なおさら異常ではないだろうか。人格を否定する社会。先天的に「空気を読めない」人を弾圧する社会。そのような社会の中で、生きづらさを抱えている人たちも少なくない。
苛々するとか、不愉快になるとか、勝手になってればいい。相手の意に反することをすれば、程度の差こそあれ、その相手は不愉快になる。そんなのをいちいち気にしていては、この身が持たない。相手を不愉快にさせないようにずっと気を使っていれば、相手のコントロール下に置かれ、やたらめったらに自分を虐げてくるやつも中にはいる。そんなやつのために誰が気を使ってやるか。
”人様に迷惑をかけるな”
よく言う言葉だ。究極、人は存在しているだけで「迷惑」なのだ。存在していれば場所をとる、酸素を消費する、邪魔になる。極論に聞こえるかもしれないが、「迷惑」とは何かを突き詰めて考えていけば、そのような結論に達してしまう。そうやって思い詰めて、「自分は存在しない方がいい」という結論に至って自死を選んだとみられる人も多くいる。
「普通がいい」という病
しかし、人様への迷惑が許されるものがある。「普通になる」ということだ。普通になれば、みんなと同じ行動をとるわけだから、仮に迷惑な行動であったとしても、「みんなやっていることだから」で許されてしまう。
泉谷 閑示さん著の”「普通がいい」という病”という本がある。
まさに自分が言いたかったことが、この本の中に書かれていたし、自分が知らないことも多く書かれていて、とても勉強になった。「クライアントのお話を聞いていくうちに、むしろ周りにいる人たちの方が病んでいるんじゃないかと思えてくることもあります。」と、自分と同じように、個人にだけ問題を押し付ける態度をしていない人が、よりによって個人の病気を治す精神科医にいると知って驚いたし、救われた。
もう、人目を気にして生きていく必要はない。
堂々と、「空気を読まない」で生きていこう。
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