筋トレは読書に似ていると思う

3日前の7月16日。
ジム通いを始めて丸2年が経過し、いつの間にか3年目トレーニーとなっていたことに気づく。

3年目はいわゆる「イキリ」だす時期だと巷で言われるため、ジムでのマナーを急に気にしたりもした。使用後の器具の清掃や片付けはもちろん、周囲の方への配慮にも一層気をつけたい。

しかし改めて、3年もよく続いたと思う。
飽きるどころか筋トレをどんどん好きになっている私だが、これほど続いた運動習慣はかつてなかった。
職場では「運動好きで活動的」「ストイック」「体力がある」などと褒めてもらうこともあるが、全くそんなことはない。

私は、私ほど運動センスのない人間を見たことがない。

体育やスポーツから離れて久しいので現在の自分の能力を測る術はないのだが、少なくとも筋トレにハマる前までは、私は間違いなく最悪の運動神経をしていたと胸を張って言える。
活動的なんてとんでもない。インドア派を極めに極めてきた。
水泳は小学生の頃から居残り練習を強制され、高学年になっても低学年用のプールが友達だった。バレーボールでは永遠にサーブが入らず、ハードル走ではあざが絶えず跳ぶよりもくぐる方が明らかに速かった。何かでキーパーをすれば顔面で受け止め、跳び箱や平均台からは首から落ちた。
もう何もかもが怖かった。
運動は苦手でとにかく嫌いだったが特にチームスポーツへの苦手意識が強く、マラソンなど1人で耐えていれば終わる種目は、誰にも迷惑がかからないぶんまだ気楽に感じた。

そういう意味でも、筋トレは私に向いていたと言えるかもしれない。
人生で初めて出会えた好きなスポーツ。それが筋トレだった。

以前同僚に、「筋トレのどういうところが楽しいの?」と尋ねられたことがある。
誰かとするでもなく、黙々と一人で苦しい事を行う趣味というのが、どうにも不思議だったらしい。特に華奢になりたいと願う女性にとっては、そんな苦しい思いをしてまで大きく逞しくなる必要はないと思う人が多いのだろう。
筋トレの魅力やメリットを列挙することはいくらでもできたが、私がなぜ辛い筋肉痛にも耐えて続けられているのか——それを本当の意味で言語化するのは難しく、せめて何かに例えて伝える必要があった。

私は「読書や創作活動と似ているところ」と答えた。

どちらも、どこまでも自分との対話で、自分の中に何かを見出す行為だと思う。
これまで意識できなかった筋肉を意識できたとき、自分の中にもともとあった「感性」のようなものを見出した気持ちになる。それは肉体で言うところの「器官」や「機能」かもしれない。
本を読んだり文章を書いているときに「私はこんなところでこんな考えを持っていたのか」と思うことがあるが、肉体においても「私のここに意識して動かせるこんな部位があったのか」と思うことがある。
自分の身体なのに思うように動かせない。自分の身体の一部なのに使いこなせていない。そんな感覚が脂肪とともに剥がれていく気がした。(剥がすべき心と体の脂肪は大いにまだある。)

ニーチェは『誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけなのだ』と言った。
自分の中にある気づいていない何かを見出し体験するのは楽しい。
私は三十代だが、まだまだ眠っている可能性があるのではないかと思わせてくれる。もしかすると筋肉も、感性や知識も、ひょっとしたら才能だって、インプットして外から付加されるものではなく、そうした刺激でもって自分の中から掘り起こすものなのかもしれない。

ちなみに、私が通うパーソナルトレーニングのトレーナーさん達は、それぞれの美学を持っていて色々な表現で私を楽しませてくれるクリエイターだ。
「筋トレは人生そのものです」
「僕は自分の身体を使って作品作りをする彫刻家なんです」
「トレーニングはしっかり止めるところで止める緩急が大事で、書道にとてもよく似ています」

本気の趣味を持っている人たちは趣味について語るとき、「◯◯は人生」「◯◯は人生で必要なものを全て孕んでいる」などと言うことがある。
私の知人は「鮎釣りは人生」と言っていた。

そんなふうに言える趣味と、その向き合う姿勢が私は大好きだ。


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