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残されたものには楽しく生きる責務がある

同僚が脳出血で死んだ。40歳だった。仕事柄、死には慣れているはずだったが、今回の死は突然だったことや歳も近かったこと、何より昨日まで一緒に働いていた人だったということが私を大分動揺させた。人には天命というものがあると聞くが本当だろうか。死にたがりの私が今もなお生きていて、死など恐らく考えたこともない彼が天に召されてしまった不思議について考える。私はまた生き残ってしまった。

そんな話をしたら、2周りも年上の友人の崇くんから「残されたものには楽しく生きる責務がある」という話をされた。彼は何十年も昔の小学1年生のときに同級生を交通事故でなくしたそうだ。訃報を聞いたその時、彼は同級生が自分に憑けばいいと思ったらしい。面白い人生を全部見せてやるから自分に取り憑いて世界をみてほしいと。以後の長い人生で知り合いや友人との死別を幾度となく経験しているが、そのたびに同じように思っているとも。確かに崇くんの人生は面白い。世界を旅したり、大恋愛をしたり、事業を立ち上げたり、まるで冒険漫画のようだと時々思う。しかし、そんな面白い人生の裏に密かな覚悟があったなんて思いもよらなかった。

大事な話を事も無げに淡々と語る彼をみていたら、私は自分の自己中心性が恥ずかしく思えてきた。人の死に面したとき、私は出来ることなら変わってあげたいと思っていたが、それは単なる偽善にすぎなかったように思う。私はただ自分の生を諦めるためのExcuseが欲しいだけだった。生きるための覚悟が私には圧倒的に足りなかった。

自分の生は自分のものだと勘違いしがちだが、本来私たちは自分という身体を借りているだけにすぎない。同僚にも天命があったように、私にも私の天命というものがあるはずだ。他人の人生を代わることなんてできない。人生に意味なんてないけれども、天命が尽きるまで自分の人生を全うするのが私の役割だということを思い出した。それならば、なるべく面白く楽しく人生であったほうがいいし、時に人の役に立てれば言うことない。自分の身体と五感をフルで使って生きていきたいと久しぶりに思った。

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