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平和がいちばん

ふと亡くなった佐野さんのことを思い出したのは、今日が原爆の日で終戦記念日も近いからかもしれない。

佐野さんは私が勤めるデイサービスに通所していた。昭和2年生まれ。私が出会ったときは90歳ちょっと手前。デイサービスの誰よりも年長者であることを誇りに思っていた。

佐野さんは腰がすごく曲がっていて、いつも前かがみで杖をついて歩いていた。後ろから見ると首無しおばけみたいで、数歩進んでは時々、周囲を見渡すためにがばっと上半身をたてる様子は、水面に顔を出す亀のようでちょっと愉快だった。腰こそ曲がってはいたものの、昔軍隊で鍛えただけあって脚力はしっかりしていた。デイサービスでもスーパーマーケットでもどこでも長い時間をかけて独りでえっちらおっちら歩いた。

私は時々デイサービスの送迎で徒歩5分の佐野さんの家まで一緒に帰った。但し、佐野さんと一緒に歩くと片道徒歩15分になる。横をゆっくり歩く私に佐野さんは決まって戦争の話をしてくれた。詳しくは語らなかったけれども、出兵経験があること、訓練が厳しかったこと、とにかくひもじかったことなどを教えてくれた。

「戦争がなくて平和なのがいちばんだ。美味しいものを食べて、みんなでわっはっはと笑えれば幸せだ」と送迎のたびに何度も何度も同じ話をしてくれた。「その話、前も聞きましたよ」と何度か言いかけたことがあるけれども、何度も話したくなるぐらいそれが彼にとっての真実だったのだろう。

家まで送迎したらいつも「あがってけ、あがってけ」といわれ、断り切れずにお邪魔したことも幾度かある。オンボロの平屋に独居されている男性老人の暮らし。万年床の枕元に日本の軍艦・戦闘機みたいな雑誌がいつも置いてあったのが気になっていた。彼にとって戦争とはどのようなものだったのだろう。もっと訊いてみたかった気もする。

佐野さんは別れ際は「気を付けて帰りいな」と玄関を出たところでいつも曲がった腰をすっと伸ばして見送ってくれた。とても律儀な人だった。私はといえば職員としての立場上、佐野さんが安全に家に帰ったことの確認をしなければならないので、曲道で電信柱の陰に隠れて帰ったふりをして、佐野さんが家に入るのをこっそり見届けた。

佐野さんは私が椅子をひいただけでも、いつも「ありがとう、ありがとう」と礼儀だけは忘れなかった。そんな佐野さんはある日高熱を出して入院し、そのまま遠くの特別養護老人ホームへと入所されてしまった。あっという間の出来事だった。いつかお見舞いに行きますねと約束したのに行けないまま、ある冬の日に佐野さんは亡くなってしまった。私は噓つきになってしまった。

佐野さんが暮らしてた家は今ではすっかり雑草に埋もれてしまったが、その前を通るたびに私をいつまでも見送ってくれた佐野さんのことと「平和がいちばん」という言葉を思い出す。

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