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多角的恋愛小説『ナラタージュ/島本理生』

「ナラタージュ」を読むと恋愛小説を読んでハッピーエンドかバッドエンドかを結論づけることって意味がないというかハッピーエンドだと思ったそれは本当にハッピーエンドなの?と思う。
自分のなかでのハッピーエンドとバッドエンドの定義に揺らぎがかかるというか。

お願いだから、私を壊して。ごまかすこともそらすこともできない、鮮烈な痛みに満ちた20歳の恋。もうこの恋から逃れることはできない。
早熟の天才作家、若き日の絶唱というべき恋愛文学の最高作。

角川HP

好きな人と一緒にいることは、基本的には幸せで光に満ちていることだと思う。
「ナラタージュ」はこの「基本的には」の部分を鋭く突いてくる。基本的には幸せだけれども、確実に大いなる幸せをもたらすとは限らないのが恋愛小説だし、恋愛というものだと思う。また人間としての相性が良くてもそこに恋愛が絡むと関係が一気に破綻してしまうような人たちもいる。
私は主人公の泉と葉山先生はきっとそうなってたかもしれないと思う。二人ともお互いと生きていくためには繊細過ぎるというか優しすぎるというか、細かなところまで拾い上げ過ぎるのだ。
そんな二人だからこそ物語は終始薄氷を踏むような、危なっかしい雰囲気に満ちている。少しでも力を込めてしまったらパリンと割れてしまう。そんな危うさというか不安定さが二人にはある。
二人はずっと互いの幸せを願っている。互いが大切だから。でも誰かの幸せを願うことや大切に想うことはすごく身勝手なもので、ある種の強引さがないとその想いは届かないし実現しない。一気に相手への枷になる。
そして二人は互いのことを好きになるには繊細すぎて優しすぎて、強引になりきれない。だからこそ別離を選んだし選ばざるを得なかったのだと思う。
二人は人間としての凹凸がぴったりで、一度互いにぴとりとハマってしまったら隙間がなくなって適度に離れたりくっついたりということができなくなる。癒着してしまってそこから腐敗してしまうのだ。
だからこそぴったりではない誰かとくっついたり寄り添ったりというゆとりを持ちながら、どこかにいる相手の幸せを願うのが身を滅ぼさない生き方で二人はそれを選んだのだ。
だから人によってハッピーエンドかバッドエンドか判断が変わるだろうし、そもそもそれらに括られるのかとも思う。ある角度から見れば幸せ、また別の角度から見れば不幸せ。
そんなハッピーエンドもバッドエンドも内包した繊細な恋愛小説だと思う。

何年か前に映画になっているので、年末にそちらも見たい。

https://www.netflix.com/jp/title/81156842


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