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待つことも聴くことのうち

人と話す機会、人前で話す機会、人の話を聴く機会というのは、頻度の多寡はあれ多くの人が経験しているはずだ。

学校から帰ってきた子どもの話を聴く時間
職場でのちょっとしたコミュニケーション
クライアントとの打ち合わせ
社内でのプレゼン
久しぶりに会った友だちとの何気ない会話
オンラインサロンでの発言

うまく話せない・話すのが苦手と悩む人は多いだろう。わたしもそうだ。
逆に、不思議なことに、うまく聴けない・聴くのが苦手と悩む人はほとんど見かけない。

でもね、聴き上手が相手なら、どんな話し下手でも上手に話せるといっても過言ではないと思うのよ。
なかなか注目されづらいけれども、それだけ聴く力って大きいはず。

そして、話すのと同じぐらい、あるいはもしかしたら話す以上に「ちゃんと聴く」のは難しいと感じる。


聴き上手は相手のことばを自然に引き出せる人だ。
ことばを引き出す手段としてまず思い浮かぶのが「質問」だろう。
わたしはそこに「待つ」もくわえたい。
会話で「待つ」のは簡単なようで意外と難しい。


先述のとおり、わたしは話すのが苦手だ。
会話のなかで、今わたしはなにを話すべきか、なにから話すべきかを瞬時に頭のなかで組み立てるのが難しい。

それに一度口から出てしまったことばは引っ込められない。
できるだけお互いの認識がズレないように伝えたいし、表現で相手を不快にさせたくないから、ことばを慎重に選びたい。

つまり、話すのに時間がかかってしまう。

なにから話そうか、どんなことばを使おうか、頭はフル回転しているが、口はまったく動いていない。
カップラーメンを待つ3分はわりとあっという間だが、会話だと10秒の沈黙でさえとても長く感じるものだ。

だから「わかった風」の相手が、わたしが答えられなくて「困っている」と思って、親切にわたしの代わりにことばを継ぎ、話を引き取ってくれる。

相手に引き取られたわたしの話は「ああ、そうじゃないのに」と思うことも多い。
スムーズに話せないわたしにも原因はあるが、お手洗いで出し切れなかったときのような、鈍いおなかの重みに似たものを感じる。

「そうじゃない話」はいつしか相手の自分語りとすり変わり、どんどん「そうじゃない」方向へ遠ざかっていく。
そして出し切れなかった気持ち悪さも増幅される。

こういうことが多いと、話しても伝わらない、話すのはつかれる、話したくない…と後向きになってしまう。
出し切れなくて違和感が残りがちな相手との会話はできるだけ避けるようになる。


だから逆に、わたしが「話せた」と思えるときには聴いてくれる相手の姿勢に感謝せずにいられない。

たとえばわたしの先輩だ。
先輩はわたしが話しにくそうにしていると察すると、話しやすいように質問(切り口)を変えてくれる。
決してわたしから話を引き取らない。

わたしがことばを探しているあいだ、じっと静かに、やわらかく待ってくれる。
気まずい沈黙にせず、わたしのことばを勝手に「代弁」しない。

そして、わたしの話を彼女のことばで確認してくれる。
「わたしはこういう理解をしたけれど、認識はズレてないかな?」と擦り合わせてくれるのだ。


わたしはわたしで「わかりやすいことばで、結論から話す」練習をもっと積む必要がある。
同時に、先輩のように相手のことばを多方向から探り、待ち、自分のことばで確認できる人になりたい。

3分過ぎればラーメンはどんどんのびておいしくなくなってしまうが、ことばはのびない。

のんびりと待てる相手、のんびりと待てる会話は、互いにとって聴く愉しさと、話せる喜びをもたらしてくれるのではないか。



今日も読んでくれてありがとうございます。
大切な人の話、ちゃんと聴けていますか?

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