学生メーデーを超えて

前置きを超えて――学生メーデーに〝寄せず〟

 2023年4月30日、関東学生メーデーの前日集会が開催され、その中で、東北大学現代思想研究会(思想研)と東京大学政治経済部(政経部)との「対談」が行なわれた。東北大学〈焼き畑〉コース・コース長は、思想研会長のSが紹介する「学生に賃金を」という主張について補足説明をする役割を任され、この「対談」に登壇した。
 企画に与えられた時間は限られており、かつその時間内に主要な問題についての提起を詰め込む必要性から、新たに議論を追加することは難しい状況であり、本当は語りたいことはいくらでもあったが、補足説明に留めるよう努めた。
 努めてはいたのだが、提起を超えて喋りすぎてしまった印象は否定できない。友人であるSに迷惑をかけるのはしのびなく、多少反省しないこともなかったのだが、集会全体が終わってから振り返ってみれば、他の連中の喋っていること、注目していることはまったく面白くなく、私の発言が最も、というより唯一面白かったといえる。
 もちろん、重要なのは面白いことそれ自体ではない。なぜ私にとって彼ら/彼女らの話がつまらなかったかということである。それはこの集会が「メーデー」の名を冠していながらも、「労働」の話を、「労働者としての学生」の話をしていなかったからである。私にとってリアルに感じられる問題である「労働者としての学生」について論じられていなかったのである。お前にとって何がリアルかなど知ったことではない、お前にとって面白くないことが論じられていたからといって集会を悪く言うべきでない、と思われるかもしれないが、繰り返しておくとこの集会は「労働者」の祝祭である「メーデー」の名を冠しているのであり、「労働」の問題を無視するのであれば、そう名乗るに値しないと言って差し支えないだろう。
 とにかく、私はもっと喋るべきだったと後悔した……ので、腹いせに今から有意義なことをこれでもかと喋ろうかと思う。

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東北大学現代思想研究会所属、〈焼き畑〉コース・コース長(Y)……前日集会の日、登壇してたくさん喋った。ビラもたくさん配った。

横浜国立大学都市社会共生学科・学生兼、都市社会××学科・学科長(G)……前日集会の日、一参加者として話を聞いていた。

Y 私は、学生メーデー前日集会のメイン企画の一つ、「現在の大学が抱える問題」と称して開催された「東京大学政経部」と「東北大学現代思想研究会」の対談に、急遽「東北大学現代思想研究会」の一員として参加して、色々と早口で語り散らかして会場を真っ当に盛り上げていたわけですが、それだけでは語り足らず、当日2,000字の両面ビラを50枚準備して会場で配布しました。そういう意味で言えば、前日集会の会場で最も語った主体でさえあった。しかし、それでもまだ語りたいことは山ほどあります。ここではそのいまだ語りつくしていないことについて激しく語ります

G Y的に、一番消化不良だったポイントはどこですか??

Y 一番も何も消化不良だったことばかりです。とりあえず5時間くらい語っていいですか?

G 情熱が無尽蔵過ぎる……

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古典的な大学観を超えて――「大学はもはや就職予備校ですらない」

Y そもそもこの対談企画で私が何を語ったかですが、元々私の役割は、思想研会長のSが紹介する「学生に賃金を」という主張についての補足説明を行なうことでした

G まず、「学生に賃金を」という主張について、聞き馴染みのない人が多いと思うので、詳しく説明してもらってもいいでしょうか

Y 学費の値下げや無償化ということがしばしば議論されますが、「学生に賃金を」というのは、それだけでは生ぬるいと言って、講義に出席してレポートを書いて……というような学生が普段キャンパスの内外で強いられている「労働」に対して、当然の対価として「賃金」を要求していくものです。大学の権威性あるいは知の権威性を担保しているのは、講義に出席する学生の存在それ自体にほかなりません。社会が自らの秩序を保つために大学・知の権威性を必要とする以上、学生はその存在自体が社会貢献なわけです。社会に恩恵を与えてやっているんだから、社会の側も学生にその対価を支払うべきだ。これが「学生に賃金を」という主張の内容です。
 さて、そのようなことをSが熱く語った後に、それに対して東大政経部が「でも、学生が大学でやっていることを『労働』とみなしたら、学問の自由が産業界の要請に浸食されちゃうんじゃないですか」と質問をするというくだりがありました。私が介入する前の時点での原稿では、この政経部の質問に対する思想研会長のSの返答はなんだかぎこちないものでした。当日の昼にSに助けを求められ、光の速さで原稿を書いたわけですが、とにかく「学生に賃金を」と主張することによって大学が産業界に従属することになるのではないかという政経部の質問に対する私の返答はこうです。参考資料にあげた「対談原稿抜粋完全版」から引用します

 大学を「就職予備校」とみなすなら、つまり「産業の未来を支える」機関とみなすなら、トートロジーのようになりますがそれは当然、「産業界への従属」といった事態になりかねないでしょう。しかし、大学で行なっていることを「労働」とみなすなら、大学で学生が行なっていることがそれ自体「労働」として自律した地位を、ある意味では「産業」という他分野の「労働」と「対等な」地位を得られるような気もします。
 それに、学生が学費を支払っている以上、学生は代金を払って教育を受ける「消費者」となるわけです。その限りでは、学生は「労働者」と対等ではありえず、当然「連帯」など望むべくもないわけです

G 私は一参加者として聞いていただけですが、東大政経部の方々の主張とYの主張は結構大きくすれ違っていたので、そこの対立はもう少し詳細に聞いてみたかったですね。東大政経部の主張というのは、良きにしろ悪しきにしろ古典的な大学観に基づいた主張に私には思えました。東大政経部の方々は途中で、ウェンディ・ブラウンという思想家を引用して、大学が経済の言葉で語られるようになり、「教育」が人的資本の養成に転嫁してしまったという旨のことを批判的に言っていた。要するに、東大政経部の方々の議論の前提は「大学が就職予備校化していく中で、学問の自律性が侵食されている」というようにまとめられるものと思われます。
 一方、Yは、「大学は就職予備校ですらなくなっている」という主張をするわけです。もはや、大学は「良き就職」というサービスを提供してくれることを十分に期待できる段階にはなく、「就職予備校」としてすら機能不全に陥っている。言葉尻をとらえるわけではありませんが、そもそも一般に「予備校」と言って想定される駿台や河合といった受験予備校とは、効率的な学習法を教わって、難関大学に合格するために通うものです。そうであるならば、「就職予備校」化している大学に通うことで、就活にとって有益な情報がたくさん得られ、良い就職が期待できるようになるはずです。しかし、実際はどうでしょうか。大卒の就職難が叫ばれる昨今の状況下で、果たして、大学は、「就職予備校」と形容できるようなものなのか。「現在の大学は就職予備校化している」という言説の背景には、「かつての大学は就職予備校ではなかった」という含みがありますが、実際は、現在の大学よりもかつての大学の方がはるかに就職には有利だったわけです。大学に入学さえしちゃえば、就活なんてしなくても企業に就職できるようなことが多かったらしいですから。つまり、昔の大学の方が、「就職予備校」としても優秀な機能を果たしていると表現できるわけです。
 大学が学問の府としての権威や自律性を失ってきていることに疑いの余地はない。だから、「学業がおろそかになって、就職(活動)がメインになっている」という議論にしてしまいたくなるのもわかります。しかし、おそらく事態はもっと深刻で、大学は学問の府として機能不全に陥ってきているのはもちろん、同時に、「就職予備校」としてすら機能不全に陥ってきているのではないでしょうか。では、「就職予備校」ですらない大学で、学生は何をしているのかというと、大学という擬制を保ち、その神話を生き延びさせるための〝労働〟に従事しているのではないか。
 それに関連して、Yが集会当日に語っていた「四六答申」の論理を逆転させようという主張は結構面白かったですね。

 1971年、文科省の諮問に対し中央教育審議会は、「四六答申」なる悪意の陰謀を提起しました。これは「大学での学びの利益は個人が享受するものと、社会全体が享受するものがある。そしてこのふたつは区別できないから、学生が可能な範囲で支払うべきだ」とするもので、これを受けて、大学の学費は上昇の一途をたどってきました。ここでいう利益とは、就職して高い給料をもらうことができるということで、まさしくここでは大学は就職予備校と見なされているわけです。学費は「自己投資」というわけです。しかしまあ、学費に見合うサービスを要求する「消費者」の目線になってみても、今の大学は、就職して高い給料をもらうことを約束してくれないという意味で、全然「自己投資」の先になりえないですよね。
 確かに個人が享受する利益と社会が享受する利益は区別できない。区別できないということは学生のやっていることは何であれ確かに社会の利益になっているということで、その対価をもらうことを要求するのは当然です。「四六答申」とある意味で同じ分析をしていて、そのうえで違う結論を主張している。我々は自分の置かれている状況を正しく理解している。そのうえで、お前の言っていることは違うと断言する、と言っていく必要があります。そうでなければ、学生が「訳のわからん」ことを言うのは、「無知」であるからであると一蹴されてしまうからです。

社会が享受する利益を個人が私費で捻出するという構造が、現状になっているわけですね

Y 「四六答申」の水準で個人的な利益と目されうるものも、社会を存立させる何らかの生産活動として位置づけることが可能であるにもかかわらず、「四六答申」はすべてを個人的な利益に還元しかねない方向への「飛躍」を図っている。「四六答申」は利益の還元先の区分不可能性を認める点で、教育費の全額公費負担と全額私費負担の両方に開かれているわけで、「四六答申」とほぼ同じ分析をしながら、その逆向きの「飛躍」をぶつけることが可能ということです

「消費者」を超えて――「普遍性」の構築

Y 学生が「消費者」である限り、〝その他の〟「労働者」との「連帯」など望むべくもありません。この集会は「メーデー」の名を冠している以上、学生と〝その他の〟労働者とに共通する抑圧の構造みたいなものを中心に論じ、「労働者」との「連帯」を図っていく目的があるのだと思っていたのですが、実際に「活動報告」などで登壇する人の発言を聞いていると、「学問の自由」や「表現の自由」といった表現が多く聞かれ、「それって〝その他の〟労働者に何の関係があるの?」と思わざるを得ませんでした。まあ、集会の内容が「メーデー」の名を裏切っているのではないかと思いこそすれ、私個人としては「連帯」とか「団結」と聞くと虫唾の走る思いがするのですが……
 ともかくその点、「学生に賃金を」という主張ははるかに〝他業界〟の労働者への「連帯」へと開かれていると思います。「学生に賃金を」は「家事労働に賃金を」のオマージュです。「家事労働に賃金を」というのは、従来労働と見なされなかった家事労働を労働として見出してしまうことが出来るという言説ですが、これは「主婦」というアイデンティティに固有のものとして提起されたにもかかわらず、そのアイデンティティを越境して、「普遍性」とでも呼びうるものを備えた論理を用意しました。「学生に賃金を」はその展開の一例というわけです。「従来労働と見なされていなかったXを労働として見出す」という抽象的な骨格を、あれもこれもと当てはめていくことによって、もはやあらゆる活動を生産=労働とみなし賃金を要求していくことが可能になると同時に、全存在を「労働者」と言い募ることができ、この地点において「学生と労働者との連帯」は必然となります
 このような「普遍性」へと開かれた議論を実際に「あれもこれも……」と生の全領域に適用・展開していくと、ベーシックインカムの要求が導かれることになります。生きていることが労働であってその対価が払われるべきである、と。このような生を労働とみなす言説は、人間は存在それ自体に労働が刻印されているということを意味します。ある種の人々にとってより積極的な意味を持つように言い換えれば、人間は本質的に生産能力を持っているということになるでしょう。このような「人間は人間固有の本質によって資本主義を食い破っていくのだ!」という論理は「人間みな同志」という価値観を帰結、あるいは前提とします。
 「連帯」や「団結」というものに素直な好意を持つことができない私としては、そういう価値観には乗れない訳で、「学生に賃金を」という主張は、既存の言説空間に亀裂をもたらす一種の「上演」であるわけです。「連帯」のための言説である「普遍性」を、「連帯」という目的から切り離して主張していく。「普遍」を僭称することで、どこにでも首を突っ込むことができ、整然とした言説空間を二重化することができる。しかし、それは全面的に「嘘」なのではなく、「大学は就職予備校ですらない」という認識に、自分にとってそれが現実であるような状況認識に、言ってみればリアリティに支えられているのです

G 「学生に賃金を」という主張がそのままベーシックインカムの主張につながるというのは、どういうことでしょうか。大学という自律した空間がありそこに社会一般とは異なった価値(ex.「学問の自由」、「表現の自由」)が認められるのではなく、大学という空間も社会の中の一要素として存在し他のあらゆる生存=労働と同様に賃金を支払われるべきということでしょうか。つまり、私が質問したいのは、学生というものが固有の価値を産出しているから賃金が支払われるべき、ということなのか、一般に生それ自体が価値を産出していて学生も例に漏れないのだから賃金が支払われるべき、ということなのか、どちらなのでしょうかということです。
 二つの立場を図式的にまとめると以下のようになります

A:大学という自律した空間があり、そこには社会一般と異なった固有の価値がある。したがって、学生は、労働者とは違う学生に固有の価値を産出しているから賃金が支払われるべき

B:大学という空間は一定程度均質な社会の中の一要素である。したがって、学生は、他の存在と同様に生それ自体によって価値を産出しているから、他の存在と同様に賃金が支払われるべき

Y 私は後者(B)の立場を取ります。つまり、大学という空間で学生は、〝他の業界の労働者と同じように〟労働を行なっているという認識に立脚します。東大政経部の方々がそのことを受け入れようとしないのは、あるいは聴衆の学生のみなさんがそのことにあまり関心を払わないのは、大学という空間の特権性を護持したいからでしょう

「学問」と「経済」の二項対立を超えて――「小学校化」した大学が提供するハッピーセット

G 「学生に賃金を」という主張は、「大学が就職予備校化してきている(から、学問の自由や表現の自由を取り戻して、古き良き大学を取り戻そう)」という主張とは食い違うわけですね。東大政経部の方々は、〝自由な学問の府としての大学〟が、「経済化」によって食い荒らされている、つまり、「学問/表現/自由 vs. 実学/経済/管理」という対立軸を設定しようとしているように私には感じられました。
 Yと東大政経部の方々とでは、どちらの認識がより広範に人々のリアリティを言い当てているかについて、私に判断する資格はないと思いますが、私個人のリアリティとしては、「大学が就職予備校化している」というのはどうもしっくりこない。私は、横浜国立大学の「都市科学部都市社会共生学科」(通称:都社共)というよく分からない新設5年の学科に所属しています。そこでは、学問か経済かといった二項対立が無効になるような、まったく新しい地平が垣間見えている気がします。都社共においては、特殊なアカデミックな知識や作法が身につくかと言えばそうではなく、かといって、産業界や就職に有益な技術が身につくのかと言ったら、そんなことも絶対にない。都市社会共生学科は、実際に地域社会に貢献していたり、学生の呑気な表現の自由が保証されていたりしますから、一概にネオリベ化と言って批判できるものでもないんです。ここで起こっているのは、大学の行政化であり、もっと言えば、大学の倫理化であると言えるでしょう。そして、ここでは、「大学の就職予備校化」というよりも、むしろ、「大学の小学校化」と呼ぶに相応しい事態が起こっている。学問の府としての機能はもちろん、就職予備校としての機能も疑問に付されているというのが、私の実感です。そしてこの実感は、近年出てきたまったく新しい大学問題として、一定の規模の層にリアリティがあると想像しています

Y 「大学の小学校化」はまったく新しい認識の枠組み、というより想像もしえない衝撃的な「リアリティ」がありますね。具体的にはどういうことでしょうか

G 「学問か経済か」という二項対立を設定した時に想定されているのは、おそらく、ゼミでカントやフッサールといった古典的な哲学書をゴリゴリ読んでいくか、エクセルで統計を処理する技術を習得していくのか、という二項対立です。「学問か実学か」と表現してもいいでしょう。しかし、私が所属している都市社会共生学科は、そのどちらもしません、というかできません。都社共で行なわれているのは、一例を挙げれば、DIYが云々とかいってゼミのみんなで切り絵をしたりそれをみんなで発表したりして楽しむという、まさしく小学校の文化祭のようなことなのです。こうした新しい地平をどれくらい重要なものとして捉えるかが、一つの分岐点になるでしょう。
 学生メーデーでの労働組合の方の講演で、「学生運動というものは、概してエリートの大学で行なわれがちで、ここにいる皆さんも恐らくそうでしょう。一方労働運動は、基礎的な勉強も出来ない人が関わっていることもあって……」というくだりがありました。エリートの大学でしか学生運動が起こらないのは、現在の学生運動を肯定する言説を支えているのが、「古典的な哲学書を読む権利が、統計を処理する技術の習得に圧倒されていく」という考え方になっていることにもその一因があるように思われます。横国自体はそこそこ名門の大学ですが、横国で出てきた「都市科学部」、あるいは「都市社会共生学科」的なものは、もっと無名の有象無象の大学でこそ、幅広く起こっていることでしょう。「都市」とか「共生」とか「環境」とか「国際」とか、そういう名前を冠した学部・学科が現れてきていて、「大学の小学校化」と呼ぶにふさわしい状況が席巻してきている。その傾向が留まることはないでしょう。これは私自身への自戒も込めての発言ですが、エリートの運動に留まることを良しとしないのであれば、「学問 vs. 経済」という二項対立を無効化して行くようなジャンクな空間とそこに巣食うジャンクな主体について、考えていくことも大事であると思われます

Y 東大政経部の方々が、「連帯」には格差の認識が必要であるという旨のことを当日言っていました。そうであるとするならば、ここで語られているような格差こそ、既存の認識の枠組み=「古典的な大学観」では見落とされていて、「連帯」を阻害しているのではないでしょうか。
 「学問の自由」を求めるような言説は、「古典的な大学観」が(かつてほどではないにせよ)いまだ通用する大学では有効であるかもしれないが、横国のような新しい状況においてまったく訴求力を持たない。言ってしまえば、学問の自律性ばかりを云々していては、「恵まれた」大学間でのタコツボの議論を免れないのではないでしょうか。「小学校化」のような惨状とそれよりマシかもしれない自分たちの状況とに共通の、ある意味で「普遍性」とでも呼びうるものを構築することこそ、「連帯」の条件なのではないでしょうか。
 より多くの学生を巻き込んでいくようなそういった「普遍性」を創出するのは、「大学の就職予備校化」を憂う言説ではなく、「学生に賃金を」という主張とそれを支える「もはや大学は就職予備校ですらない」という認識であると思います。そして、その地点において、政治的主体を担うのは、そういったリアリティを生きる「ジャンクな学生」にほかなりません

G 東大政経部がイメージしているのは、おそらく、〝文学部〟や〝理学部〟といった学部の存在が追いやられてきているということでしょう。経済化によって、学問の自律性が失われている、と。
 そのような問題設定が間違っているとは言いませんが、彼ら/彼女らの認識を絶対化した時に見逃されるのは、「都市科学部都市社会共生学科」的なものです。そして、それは、単に大学改革の一環で横浜に出てきてしまった誤作動には収まらないでしょう。抽象的な学問でもなければ具体的な実学ですらない、行政的なものと倫理的なもののハッピーセットとしての学部・学科が徐々に出てきているし、今後はますます猛威を振るっていくことは間違いない。そうしたガラクタのような存在を認識し、そこからいかに倫理/行政の外を見出していけるかという点も私としては考えていきたいですね。

「タテカン」を超えて――「京大進歩史観」批判

Y ここまで「古典的な大学観」では都社共的な状況が見逃されるという議論をしてきましたが、「学生メーデー」で発言していたような学生は、「大学観」だけでなく、主張の方法、表現の方法もまた古典的な枠組みに囚われているように思いました。
 古典的な表現の方法とは、端的に言って、「タテカン」のことです。タテカンは偶然そこを通りかかっただけの通行人の視界に入る優れたメディアだと発言している方がいましたが、それはビラでも同じことで、タテカンの独自性ではないですよね。タテカンがビラに対して優位であるとすれば、せいぜいその撤去が難しいことくらいだと思います。ビラを貼ったほうが安上りに決まっていて、誰でも参入できるという意味ではるかに民主的な手法でもあります

G タテカン作成の技術が「既得権」として機能しかねないという点も問題ですね。いわば、職人ギルドです。タテカンやゲバ字という、〝学生運動っぽい〟メディアに関しては、伝統的な学生運動が今も残っている東大や京大といった大学がその作成に関するノウハウを過去からの継承として所有している点で、そういった大学を頂点に据える階層が作られることになる。伝統的な〝学生運動っぽい〟学生運動が残っているのは、基本的に高偏差値大学が多いですから、ここでもまた、学生運動の主体として想定される主体が、一部のエリート大学の学生に限定されかねない。
 一方、ネット上でのメッセージであれば、現代資本主義は多くの人間にスマートフォンを持つように要請しているわけで、そのスマートフォンさえあれば誰にだって発信できる。これに対して「ネット上での発信は偶然そこを通りかかった通行人の視界に入らない、その点でタテカンは有意義なメディアなのだ」という反論があり得ますが、これに対しては、WordやPowerPointで作れる簡易的なビラや冊子を提唱しましょう。現代社会、そしてその一部分たる大学は、パソコンの所持、あるいは、最低限のWord作成スキルやPowerPoint作成スキルを要請します。現代社会が要請するそういった最低限のスキルさえあれば、簡易的なビラや冊子を、大量に作成できます。ビラを20枚くらい同じ場所に貼れば、タテカンくらいの面積を占めることも可能です。まぁ、そもそも、ビラや冊子なんて、ボールペンで書くだけでも良いんですけどね。その場合は、小学校で施される文字の読み書きの訓練によって、作成することが可能となります。
 ともかく、私が言いたいのは、現代(資本主義)社会によって施された訓練だけでも、抵抗の意志を表示して行くことは十分に可能であるということですね。「タテカン」というメディアに特権性を見出してしまうよりも、この様に発想する方が、誰もが抵抗の意志を表示できるという点で非常に民主的なものに思えます。
 「タテカンがたくさんあって自由な学生の表現が花開いている古き良き大学」という懐古的なイメージに訴えかけることで獲得できるものは獲得していくべきだと思います。しかし、そういった懐古的なイメージに依拠することができないジャンクな主体に何を訴えかけていくのかということを同時に模索しなければならないということは、絶対に揺るぎ得ない論点でしょう

Y 伝統的な学生運動が今も残る東大や京大を頂点とするような見方は、われわれがここで提起したような言説を軽視あるいは無視します。〝学生運動っぽい〟学生運動は「前時代的な」ものであり、今もそれが存在するとすればそれは「残存」しているにすぎません。そのことは伝統的学生運動の継承・保守を肯定する立場からも否定することはできないはずです。にもかかわらず、学生がその自発性を発揮しまくっているかのような東大・京大は、あるべき大学の姿として理想や目標とされているという意味で、「進歩的」であるとみなされています。まったく「新しい」横国的な状況は、東大・京大へと「進歩」を遂げるべき前段階と見なされてしまいます。このような見方を、私は「京大進歩史観」と呼んでいます。
 このような認識においては、われわれの運動は、東大・京大的状況へと向かうための闘争として、あるいは東大・京大的状況が「欠如」した状況において「可能な」闘争として、東大・京大的な状況に対して従属的に位置づけられてしまいます。
 そのような意味で、東大・京大的なものに憧れちゃうダサい前時代的な感性をどうにかしない限りは、学生運動は現代的な状況に応接できないと感じられます

G まぁ、Yの言いたいことも分からないでもないですが、私としては先ほども言ったように、伝統的なことに訴えかけて獲得できるものは獲得した方が良いと思ってるんですけどね。映画『三島由紀夫 vs. 東大全共闘』に象徴される「昔の大学はみんな政治的な議論しててスゴイ!!昔は良かった!!」的な、伝統的なものへの懐古に抵抗の運動のイメージが独占されている状況を私は問題視しています。時代を錯誤することが抵抗への動機付けになることを、わざわざ頭ごなしに批判する必要もないでしょう。①懐古的なイメージから抵抗の動機づけを受け取る主体が一部にいることを批判はしないということ、②そこからは動機付けを一切受け取れない私のような主体が他にも多くいるであろうこと、③そうした主体に何を訴えかけるかも考えていくべきだということを、三つ同時に私は主張しているのです

Y しかし、伝統的なことに訴えかけて獲得できるものが何かということは依然疑問として残りますね。「学生自治」を目指す言説は「普遍性」を獲得しえないというのが私の実感です。そういった言説は、「学生自治」のリアリティが残存する大学の固有性ばかりを強調することになり、言説のタコツボ化を導きかねません

G それもそうかもしれませんが……いずれにせよ、タテカンや学生寮やゲバ文字といった〝学生運動っぽい〟学生運動が塵も残らず一掃された地平に新しい亀裂を創出していくことが大事だという論点については、私もYも共有していると思います。その亀裂を創出する方法はイマイチわからないが、少なくとも、学生の表現の自由や学生の多様な文化を称揚・主張していくことではないことも共有できていると思います

Y そうですね......

「理性的主体」を超えて――クレーマー的主体

G 学生メーデー前日集会の主なテーマの一つに、「奨学金」の問題があります。しかし、当日、奨学金の問題についてあまり議論はされませんでしたね。時間の制限があるがゆえに仕方のないことだとは理解していますが、集会で奨学金の問題に触れることがあれば、私としては挙手して発言したいことがあったので、少し残念でした

Y そういう場の空気はあえて読まずバンバン発言していくべきだと思いますが、それはさておき、Gが言いたかったことはなんですか??

G これは私の知人・Bの話です。Bはいわゆる〝意識高い系〟で、Bが何とか見つけた人材であるCを共同責任者として学生起業をしようとしていました。半年ほどの綿密な準備期間を経て、明日いよいよ正式な書類を提出しようという時に、問題は起こりました。Cは、奨学金を貰っている現役の学生だったのですが、どうも、奨学金をもらう条件の一つに、「企業の役職についてはならない」的な条項があったようです。したがって、BはCと共同責任者として起業することは叶わず、色々なところに足を運んで準備に奔走した半年間がすべて水の泡となってしまったようですね。もう一度、Cのような適切な人材を見つけて起業にまでたどり着けるか分からないということで、Bは大変失望していました

Y かわいそう……奨学金制度においては、〝意識高い系〟さえ抑圧されているわけですね

G 「奨学金」は、留年や停学を食らうと停止されてしまうという話はよく聞いていましたが、まさか、〝起業〟も出来ないとは思いもしませんでしたね。「奨学金」という「借金」を、起業で一儲けして返済することすら許されていないのです。〝学生起業〟なんてする奴は、まさしく「経済化する大学」の傀儡みたいな奴なのかもしれませんが、しかし、そうした傀儡達でさえも、「奨学金」問題には苦しめられている。こうした点からも、大学は、「経済化」さえ満足にできていない、という観点が獲得されるように思えます。大学は、学生に労働力としての訓練を施すことさえ、上手くできていないのです。学生起業という「スキルアップ」の契機すら、奨学金制度は抑圧しているのですから

Y それこそ、「学生という労働者」という観点から語れるかもしれませんね。つまり、学生という労働者は、「職人」のようにそれ以外の仕事に時間を費やすことを禁じられ、副業で利益を得ることが禁止されてしまっているとも表現できるのかもしれない。それに対して、副業の自由、副業しないで済むだけの十分な賃金などを、労働者として要求していくことができますね。
 関連して、「○○に賃金を」は体制側の秩序に有利な形で「実現」されうるということは警戒してもいいかもしれませんね。「十分な賃金を貰っているならば、その持ち場から離れるべきでない」と、その労働条件に文句を言うことはできてもその労働から離れることは許さないような形で、秩序を再編成するような動きが想定されます

G 今、Yが「○○に賃金を」的な論理の悪用への懸念を提示していました。まったく似たような懸念が、それこそベーシックインカムについても言われています。国家に金を出してもらって生きていくということは、私たちの生活を国家の監督下に置いてしまうことを意味するのではないか、という懸念です

Y そうですね。学費の問題に関して提示した私の懸念を、社会の生活一般に敷衍すると、そのような議論になるでしょう

G そのような懸念は不要だと私は考えています。現状、学費においてセーフティネット(という体裁)として機能しているのは奨学金、生活一般においては生活保護だと思いますが、それらは、様々に提示される条件を承諾する限りで受けることが出来る支援となっています。対談でも、思想研会長Sが、給付型奨学金を受け取るには「親の年収」が一定以下であることが条件になっているという話をしていましたね。先ほど私が紹介したBの事例の場合は、「起業してはいけない」という条件が課されている。生活保護に関しても、支給されるかどうかは、「労働意欲があるかどうか」みたいな訳わからん基準で決まっているそうです。国家による経済的支援が一部に限定されている現状においては、「国家の監督下に生活が置かれること」を交換条件にして初めて「国家から経済的な支援を受けること」が可能になっています。
 一方、ベーシックインカムなり「学生に賃金を」という主張は、一切の交換条件なしにして国家から金をふんだくることを、より正確に言えば、金を貰うのにあたって既に十分すぎるほどの交換条件を支払っていると主張しているのです。したがって、「○○に賃金を」という主張は、Yが提示した懸念と反対に、国家の監督下から生活を開放することに繋がると思いますね

Y 現状の奨学金/生活保護制度の下では、支援を受け取るときに、「カネを出してください、口を出してもいいので」というお願いをしていることになってしまっている。それに対して、「○○に賃金を」という主張の下に、「カネは出せ、口は出すな」ということを胸を張って堂々と主張すべきということですね

G そうですね

Y 支援に条件を設けることで規律と管理を図る権力に対抗しうるのは、慎み深く良識的な市民的主体ではなく、何を与えられても満足せず自らの不満に立脚して暴れるクレーマー的主体である、と言うことができますね。現状「等価交換」と見なされている権力との取引において自分はあまりにも多くを払い過ぎており、現状「クレーマー的」と見なされうるような「理不尽な」要求こそが正当であると主張していくことこそが、「現実的な」装いの支配を相対化し揺るがすことができると思います

存在の必然を超えて――「上演」としての政治

G Yの主張はパラダイムの転換を迫るような主張で、僕も首肯するところが大きいわけですが、一方、そのあまりのネグリ=ハート的な語り口には疑問を投げかけざるを得ません。あらゆる存在が価値を産出しているから、それに対してベーシックインカムを支払えというのが、ネグリ=ハートの主張なわけです。科学的・技術的活動あるいはきわめて広い意味での創造的活動から、政治の実践や世界の既存秩序に対するありとあらゆる形態の抵抗や逃走にまで及んで、それら全てを、価値を産出する労働であると主張してみる彼らの主張と同様の論理をYは採用しています。労働の概念の中に共通のものを形成する手続きの総体を統合しようとする、そのような語り口は、政治の還元不可能な固有性を存在論へと抹消することにはならないでしょうか

Y そうですね。結論から言えば、私はネグリ=ハートの世界観や価値観は採用していません。私がネグリ=ハートの主張を支持し、踏襲するのは、それが体制・反体制の双方が共有している古典的な大学観に亀裂を入れる限りにおいてです。その主張を根本的なところで支えている唯物論的なものの見方自体は退けたいと思っています。
 ネグリ=ハートは「人間の存在にはそれ自体の中に固有の性質(生産諸力)があって、その性質から必然として運動が起こっていく、あるいは運動が正当化される」ということを主張していると私は認識しています。この見方は、Gの言う通り、すべてを人間の存在の本質に還元してしまいます。すべての存在に内在する(とされる)性質を運動の根拠にするネグリ=ハートの議論は、ある種の人々にとっては、「革命の必然性」を担保する希望の哲学であると感じられるのでしょうが、私にとってはそうではありません。
 人間存在に内在する性質、全人類に普遍の性質など当然知りようがありません。そのような性質が存在するかどうか自体わかりません。ゆえに、我々が語りうるのは、感性で把握しうるもののみであり、存在に内在する性質を云々する存在論はそれ自体フィクションです。しかし、フィクションであるからただちに悪いと言いたいわけではありません。存在論というフィクションにつきまとう第一の問題は、人間存在という「例外なき普遍性」を打ち立てることで全人類を動員しようとする全体主義的な言説であることです。そして、この動員のためのフィクションは、動員される「人間」を単一の存在論に還元するのみならず、「例外」のないはずの「普遍的な」性質に当てはまらないモノを「人間」ではないとして法の外に「排除」します。
 この存在論的フィクションの問題点の第二は前衛主義です。先に述べた通り、全人類に普遍の性質が存在しているかについて本来語ることはできません。にもかかわらずそれについて語っている存在論=唯物論者は、それを語ることが「できる」というその自らでっち上げた資格によって、自らを特権的な位置に置いています。唯物論=存在論を受け入れた途端、その人間存在に対する洞察をすることができる者とできない者という階層をも受け入れることになるのです。
 以上のように、存在論とは「動員」と「排除」と「階層」を生み出す言説であり、よほどの巨悪を引き受ける覚悟のない限りこれを採用することはできません。この巨悪を引き受けてまで得たいものは、というより得られるものはあるのか、ということが問われるべきだと思います。
 そして、今回の議論に関連して最後に指摘しておきたいのは、存在論=唯物論が持つ「必然」の装いです。「革命」でも「蜂起」でも何でも構いませんが、それらは存在に内在する性質から「必然的に」導かれるものになります。すべてが存在に還元され、すべてが存在から導出されるものとされてしまうのです。もちろん「政治」も例外ではありません。「動員」と「排除」を決定する言説の「特権性」だけは揺るがず、そのフィクションにしたがって、「歴史」は「必然的に」進行する。原初の「動員」と「排除」を温存したまま。
 政治が存在に内在する性質から必然的に導かれるという言説はフィクションです。そもそも「存在」という概念の普遍性自体がフィクションです。実際には、政治もそれを担う主体も感性的に把握することしかできないのです。したがって、政治的主体とは、政治を行なうことを必然として証明された実定的な誰かではなく、政治を行なうことそれ自体によってはじめて定義づけられるものなのです。
 必然性が支配するという語り口の中に政治は存在しません。必然性の言説のうえでは一切が予定調和的です。政治とは予期不可能な「係争」であり、その「係争」を通じてはじめて「主体」と呼びうるものが立ち上がってくるのです。私が「ネグリ=ハート的な主張」をするのはむしろ、それが主体的な係争の「ネタ」として強度を有するもの、つまり「係争」を引き起こすような挑発として十分なものだと考えるからです

G 「全ての活動は生産である」という議論は、存在に関する「分析」としても提示されうる。一方、Yは、政治的主体化への単なる舞台装置としてその議論を利用する。つまり、「分析」ではなく、「上演」としての政治的効果を期待して発話しているわけですね

Y その通りです。政治とは「上演」に他ならないのです。政治を行なう主体は所与の条件なのではなく、政治を行なう者がその行為それ自身によって主体と名指されるのです。唯物的な存在論を分析として本気にして受け取ると、マルチチュードという主体が先にいてそれが暴れ出す力を秘めているということになりますが、実際にそのような何か実定的な集団がいたとしても、それはフィクションが偶然現実に一致したにすぎません。その当たっているかどうかもわからないものへの賭けに「動員」し/されなくとも、われわれには政治の道が開けている。私が唯物論を退けるその楽観すらもフィクションだとしても、「動員」と「排除」と「階層」と「必然」に縛られ全体主義への転落をほとんど運命づけられている言説よりは、賭けに相応しいものだと思います。この賭けのことを私は……

激論はまだまだ続く……

***

結びを超えて――学生メーデーを超えて

 改めて述べておけば、今回の「関東学生メーデー」に関して最も強い違和感を覚えたのは、それが「労働」の問題を軽視していることです。「メーデー」を名乗りながら、「労働」の問題を扱おうとしないのは、「自分たち学生とは違う」労働者という立場を軽視したものであり、「メーデー」の盛り上がりを一方的に「利用」することになっているのではないでしょうか。
 前日集会でご講演された東京管理職ユニオンの方は、その講演の中で、「学生運動と労働運動の関連」について論じてほしいと依頼された、とおっしゃっていました。「労働運動」に従事する方にわざわざそのように依頼しておきながら、「学生運動」の側からは「労働」に接する問題をほとんど論じないというのは、不誠実なのではないでしょうか。
 とはいえ、私は「他者を利用している!」というような倫理的糾弾がしたいわけではありません。問題としたいのは、「学生メーデー」が前提とする(執着する)「古典的な大学観・学生観」がもはや「就職予備校ですらない」大学のリアリティを捉えられていないということです。
 現在の大学の状況に対して何らかの意味で問題意識を持つ学生の間では、「大学は就職予備校化している」という言説が支配的です。そのような認識においては、「就職予備校化」を免れている東大・京大のような空間、あるいはかつての大学に代わるような知的・自律的空間が称揚されます。
 しかし、「就職予備校」言説が前提としているのは、「学生自治」というような価値を既得権としてかろうじて持っているにすぎない特殊な状況であるということは指摘できると思います。〝学生運動らしい〟学生運動の目的は、昔から伝統的に学生が獲得してきた権利を「守る」ことにあるということは、誰もが認めることだと思います。そのような学生運動だけが学生運動の可能な道と見なすことは、単に「学生の運動」以上のことを意味しないはずの「学生運動」の可能性を縮減することに他なりません。
 「学生自治」至上主義は少なくとも相対化される必要があります。「学生の自治」を主張しないなら何が「学生運動」の名で可能なのか。この問いは転倒しています。自らの不満に立脚して「ついやらずにいられなくなる」のが運動です。
 社会的に構築されたアイデンティティに耐えられずそこから飛び出していくところにこそ運動があるのであって、それを「自治をする学生」や「表現をする学生」という実定的で内容「豊かな」アイデンティティをあてがうべきではありません。
 私が提唱したいのが、もはやかつてのような学生として積極的アイデンティティを持たないジャンクな主体を突き動かすような「普遍性」の構築と、それを実現するための「上演」です。そして、ここで「普遍性」が要求されるのは、既存の言説空間に亀裂を入れるためであり、しばしば自己目的的なものとして言い募られる「連帯」のためではありません。「守る」べき価値をもはや持たない大学において、それ以後を生きる学生にとって「学生自治」なんてものは何ほどのものでもありません。私が提唱するのは、懐古的な気分に独占されたオルタナティブの抵抗運動のイメージに対するオルタナティブであり、ここで1万6千字以上かけて述べてきたのもそれです。
 さて、オルタナティブ不毛の地である東北では、懐古趣味の「学生自治」共同体もまた希薄です。「学生自治」言説の独裁状況では、そのようなオルタナティブ不毛の地は、「学生自治」保守闘争としての学生運動が盛んな都市圏に対して、従属的に位置づけられることになるわけですが、私はむしろそのような〝学生運動〟らしい学生運動が盛り上がっていない東北こそ、まったく新しい学生運動の起点になり得ると考えます。ジャンクなリアリティが既存の「学生自治」保守闘争に黙殺されたり回収されたりする危険性が低いからです。関東をはじめとする都市圏の方々には、ここまでの「〝関東〟学生メーデー」に対する批判を「超克」することを期待したいとは思いますが、オルタナティブ不毛の東北という恵まれた状況に置かれている私こそが、真っ先にまったく新しい学生運動を闘っていくことになるでしょう。


 「学生メーデーを超えて」の参考資料として、「対談原稿抜粋完全版」と「学生メーデーに寄せて」を公開する。
 「対談原稿抜粋完全版」は、学生メーデーの前日集会で開催された対談企画「現在の大学が抱える問題」のために作成された原稿から、「学費・奨学金問題」の部分を抜粋し、当日新たにつけ加えた発言を補ったものである。
 「学生メーデーに寄せて」は、前日集会でコース長が聴衆に配布したビラである。末尾の引用もビラに記載したものである。

参考資料を超えて①:対談原稿抜粋完全版

思想研 私は学費の問題をもっとも重要視したい。学費というのは、すべての学生に関係があることだし、なによりも高すぎる。わざわざ説明するまでもなく、このことには学生なら誰もが同意することと思います。この学費の高さは、1970年代以降の新自由主義的政策を直接反映しているのです。
 高い学費のなにが問題か。もっとも大きな問題は教育の機会均等を損なってしまうことだと思います。加えて、学費は直接に学生の自由を抑圧していますから、学生はそれにちゃんと抗議したほうがいいと思うんです。
 これは有名な話かもしれませんが、私たちがこれだけ高い学費に苦しめられている一方で、世界人権規約では高等教育を全てのひとに保障するためには、無償化へ前進すべきだと言っているんですよね。この世界人権規約には、1979年に日本も批准しています。それにも関わらず、学費は値下げされるどころか、首都圏では2020年に値上げされてしまいました。
 2020年度には、給付型奨学金と学費免除がようやく整備されましたが、それにもやはり問題があります。給付型奨学金も学費免除も適用の基準は「保護者の年収」です。これは、保護者が学費を払うということが前提になっているんですね。大学の学費がこれだけ高いのも同じです。保護者が払うということが前提になっている。
 ここでは「経済的ネグレクト」を受けているような人のことは考慮されていない。私は文学部の哲学科という、世間でもっとも実学から遠いと見られている場所にいるのですが、そういう場所にいると、実家が裕福で、あるいは親がある程度経済的に成功を収めているからこそ「そんな役に立たない勉強をするなら支援はしない」なんてことを言われている人を見かけることも少なくありません。
 先ほど(本資料未収録部分)私は、自治寮は何よりも福利厚生という点から必要なものであると述べました。自治寮は​、このような経済的ネグレクトを受けている学生に柔軟に対応できるセーフティーネットとしても必要なものと言えます。
 この「保護者が学費を払う」という考え方は、学生の声を軽視することともつながっているような気もしますが、やはり学生を自律した個人として見ていないことを示しているとも思うんですね。学費を保護者が負担することで、学生が家族の支配下にとどめ置かれてしまう。
 あと、私はすごい僻地の出身なんですが、そういうところではやはり「なんで女にそんなお金をかけて東京の大学に行かせるんだ」って言う人はまだ結構いるんですよね。女子枠の設置がさまざまに取り沙汰されていますけど、まず学生が自分の意志で学びたい学問を好きなだけ学べる環境が必要だと思っています。そのために、奨学金ではなく(奨学金は止められてしまうこともありますから)学費の無償化を学生がどんどん主張していくべきだと思います

――どのように主張していくべきだと思いますか?

思想研 現実的なところとしては、西ヨーロッパ並の10万円くらいまで学費を値下げすることを要求していくべきかなと。学生が学業に集中しつつも自分だけで稼げる額ですし、高等教育への支出を先進国の平均にまで引き上げさえすれば達成できる金額ですから。もちろん将来的には完全無償化にすべきだと思います。さらに言えば、「学生に賃金を」という運動があります

――「学生に賃金を」というと……

思想研 これは1968年頃のイタリアの学生運動が掲げたスローガンの一つです。68年頃の日本では、ベトナム戦争などの影響を色濃く受けた東大全共闘によって「大学解体」がスローガンに掲げられていましたが、イタリアの学生運動は労働運動との深い関係のうえで展開されてきました

――「家事労働に賃金を」というフェミニズムのスローガンと関係はあるんですか?

思想研 まさに同じ論理です。「家事労働に賃金を」は、女性が「労働力の再生産」という「労働」をしているにもかかわらず、その「労働」の側面が無視されてきたことへの異議申し立てです。「学生に賃金を」も同じで、学生が大学で学んでいることは、高度な社会を成り立たせるために必要な技術、専門知なわけです。社会を成り立たせるために必要な労働を学生もやっているんだと、あるいは失業者も、借金をしている者もやっているんだという主張です。家事労働に、学生に、失業者に、債務者に社会賃金を払え! こういう運動も私たちは見据えていくべきだと思います
 このような主張が魅力的なのはなによりも、すべての問題を「労働」と捉えることで、さまざまな運動と「連帯」して大きなムーブメントにしていく契機があるということですね
 次のトピックを先取りすれば、もう大学は完全に産業界の支配下にある。私は「学生自治」とかの原則的な運動を続けていこうとは思っているのですが、他方むしろ産業界の要請で「就職予備校化」してしまった大学の実態を内側から崩すものとして、こういう主張も取り入れていくべきだと思っています

ーー学生の活動を労働として捉えると、それは大学の産業界への従属化を擁護してしまう議論になりかねないのではないかと危惧していますが、その点はどうお考えでしょうか。

焼き畑 ここからは思想研会長に代わって私がお答えします。まず、混乱を避けるために先に断っておけば、この点に関して私と思想研会長の考え方は少し違います。思想研会長は「大学が就職予備校化した」と表現しましたが、私は「大学はもはや就職予備校ですらない」と考えています。もはや学費に見合った職業訓練を提供する場ですらなくなっているということですね。
 さて、そのうえでお答えしますが、大学を「就職予備校」とみなすなら、つまり「産業の未来を支える」機関とみなすなら、トートロジーのようになりますがそれは当然、「産業界への従属」といった事態になりかねないでしょう。しかし、大学で行なっていることを「労働」とみなすなら、大学で学生が行なっていることがそれ自体「労働」として自律した地位を、ある意味では「産業」という他分野の「労働」と「対等な」地位を得られるような気もします。
 それに、学生が学費を支払っている以上、学生は代金を払って教育を受ける「消費者」となるわけです。その限りでは、学生は「労働者」と対等ではありえず、当然「連帯」など望むべくもないわけです

ーー難しいところですね。大学の価値を経済的利点のみから判断する新自由主義的な言説には対抗しなければならない、しかし、学生の経済的価値を主張しなければならないというのは、難しい二方面作戦のように感じます。ただ、「家事労働に賃金を」キャンペーンも、実際に賃金を得ることを達成目標としていたわけではなく、あくまで再生産労働の価値を認めさせることが目標だったわけですから、学生に賃金をキャンペーンも、単に新自由主義の経済的利益至上主義とは異なった意味での価値を認めさせる取り組みだと捉えれば、矛盾はないとも考えられますね

焼き畑 学生の経済的価値「も」主張するということは、必ずしも大学を経済的なものに全面的に還元することではないんじゃないんでしょうか。経済的にものごとを測ること自体をそれほど恐れなくてもいいのではないか、というのが私の感覚です。大学の価値が経済的な利益のみで語られないとしても、積極的に言い換えればその範疇を超える価値を持つとしても、「経済以外に価値があるんだから労働の対価は受け取るべきではない」ということにはならないわけですし。そういう訳で、個人的にはそういう広告キャンペーンとしてではなく、本気で「賃金」をもぎとろうとしていくことが大事だと思っています。
 「あれもこれも実は再生産労働、あるいは労働それ自体なんだ!」という主張のひとつの帰結であるベーシックインカムにも、「貨幣で支給したら資本主義を乗り越えられないやん」という批判があったりするみたいですが、資本主義を粉砕する気概のない私としてはフツーにお金がほしいですね。
 1971年、文科省の諮問に対し中央教育審議会は、「四六答申」なる悪意の陰謀を提起しました。これは「大学での学びの利益は個人が享受するものと、社会全体が享受するものがある。そしてこのふたつは区別できないから、学生が可能な範囲で支払うべきだ」とするもので、これを受けて、大学の学費は上昇の一途をたどってきました。ここでいう利益とは、就職して高い給料をもらうことができるということで、まさしくここでは大学は就職予備校と見なされているわけです。学費は「自己投資」というわけです。しかしまあ、学費に見合うサービスを要求する「消費者」の目線になってみても、今の大学は、就職して高い給料をもらうことを約束してくれないという意味で、全然「自己投資」の先になりえないですよね。
 確かに個人が享受する利益と社会が享受する利益は区別できない。区別できないということは学生のやっていることは何であれ確かに社会の利益になっているということで、その対価をもらうことを要求するのは当然です。46答申とある意味で同じ分析をしていて、そのうえで違う結論を主張している。我々は自分の置かれている状況を正しく理解している。そのうえで、お前の言っていることは違うと断言する、と言っていく必要があります。そうでなければ、学生が「訳のわからん」ことを言うのは、「無知」であるからであると一蹴されてしまうからです


参考資料を超えて②:「学生メーデーに寄せて」

 東北大学〈焼き畑〉コース・コース長です。関東学生メーデーの前日集会での東北大学現代思想研究会(思想研)と東京大学政治経済部との対談企画で、「学生に賃金を」という主張について発言の機会をもらいました。とはいえ、そのことが決まったのは昨日のことであり、すでに議論の内容はほとんどまとまっており、また新たな議論を追加するには本企画に与えられた時間はあまりに短いことから、私の役割は思想研会長の発言を補足することに留まりました。
 語らないことを期待されている者が場違いに語り出すことを「政治」の契機と見なし、自らも語ることを期待されていない場所で空気を読まずに語ることを是とする〈焼き畑〉コースとしては、このような「役割」は無視して、好き勝手に語り出すべきなのですが、友人である思想研会長に迷惑をかけるのはしのびないので今回は補足の役割に徹しました。
 しかし、やはり本当はもっと語りたいわけです。以下は、いわば「読み上げられなかった原稿」です。

 大学においては「学生は学費を払い、それに見合う知的サービスを受け取(ってい)る」という物語が信じられている。つまり、学生は「消費者」と信じられているのであり、そう信じられているからこそ、自らそう信じているからこそ学生は「消費者」として振る舞うのである。「物語」が効力をもつには、それが真実であると信じられさえすればよい。そしてその物語を信じるには、物語が正当化する立場に身を置きさえすればよい。学費を支払うしかなく、したがって自分を「消費者」として描く物語を信じるしかない者の立場にである。
 大学と学生を、知的サービスを提供する側とそれを受ける側(消費者)という関係としてみる限りでは、学生はつねに大学の提示するオプション以外を選択することはできない。学生が要求しうるのは、あくまで商品の質(講義の質、キャンパスの快適な使用)の向上であり、学費に見合うサービスにすぎない。学生から大学へのはたらきかけは、大学と学生のあいだの「対話」は、講義やキャンパスといった商品をめぐる調整的なもの、「コンセンサス」をはかるものとなる。

 しかし、学生が「消費」の名で強いられているのは「労働」にほかならない。空虚で退屈で長くつまらない講義を聞き、面倒なレポートを書くことが「労働」でなくて何なのか。後述する通り、これらは「職業訓練」としてはあまりに「価値」が低い。大学に行くということは、大学の知の権威を、知的サービスの商品としての価値を担保するために、延いてはそのような権威や価値の存在を必要とする社会のために、自らの時間と労働力とを提供することにほかならない。
 代金=学費に見合うように商品=講義の質を向上させようとすることは、大学が学生から学費を簒奪することを正当化する論理――学生は「消費者」である――を免れていない。そもそも、「消費者」の目線から言っても、これほどまでに高くなった学費に「見合う」講義など今更望むべくもない。必要なのは「学生に賃金を」と言い募ることである。

 大学がもはや学費に見合った教育(という商品)を提供できないとすれば、大学の機能は「就職予備校」であろうか。この問いの立て方は「消費者」のそれである。学費を払っていることは、大学が学生に何かしらを提供していることを保証しない。むしろ、大学が学生に何かしらを提供しているという言説自体が、学費が払われているということに支えられているのである。大学は「就職予備校」としても学生に何も提供していない。

 とはいえ、「学生に賃金を」それは非現実的で不可能な要求のようでもある。
 しかし、現実的な議論や意見が現実的なのは、それを現実的たらしめる言説の磁場あってのことである。現実的な議論とは、すでに準備されたオプションの中から何かを選ぶような、あるいはすでに準備された「分け前」の分配の仕方を調整するようなものである。すでに準備されたものがすでに準備されているがゆえに、現実の名を独占しているにすぎない。このような現実的な議論を用意する言説の磁場に亀裂を入れなければ、大学に対して受け身(消費者)であるような学生の在り方は変わらない。そのためには、「一見不可能なこと」さえも(現実的なこととして)要求していく必要がある。
 そのような要求を掲げることは、「現実的」な視座を持たず目先の利益に飛びつくポピュリズム的「大衆」や、あるいは「理不尽」な要求をしつこく要求する「クレーマー」のような態度ですらあるかもしれない。それの何がいけないのか。不可能で非現実的(であるかのよう)な要求を掲げて「コンセンサス」を切断することは、我々学生に可能で現実的な闘争である。

参考のための引用:ジャック・ランシエール『不和』

この語[ポスト民主主義=コンセンサス民主主義]がわれわれの役に立つのは、さまざまなかたちの民主主義的な行動を抹消するコンセンサスの実践を、民主主義の名で主張するというパラドクスを示すためだけである。ポスト民主主義とは、民衆の後に来る者による民主主義、すなわち民衆の見せかけ、民衆の計算違い、民衆による係争が一掃された民主主義による統治の実践であり、概念的正当化である。[したがってそれは]国家装置および、エネルギーと社会的利害の構成物からなる、たんなるゲームに還元しうるものである。ポスト民主主義は、さまざまな社会的エネルギーのゲームのなかに制度の形式のを発見することになった民主主義ではない。それは、制度的装置と、社会の分け前や役割の配置とを同一視する様式であり、民主主義に固有の主体と行動を消滅させるのに適している。それは、国家の諸形態と社会関係の状態とを余すところなく適合させる実践と思考である。
 実際、以上が、コンセンサス民主主義と呼ばれるものの意味である。現在支配的な牧歌的風潮(アイデイル)によれば、コンセンサス民主主義には、個人と社会集団の合理的な一致が見られる。この風潮によれば、可能なことを認識することと当事者同士で論争することは、当事者双方にとって、状況についてのデータの客観性から期待しうる最適な分け前を手に入れるための、対立よりも望ましい方法だと考えられる。しかし、当事者同士が戦うかわりに論争するためには、まず彼らが分け前を手に入れるための二つの手段のなかから選択できる当事者として存在しているのでなければならない。コンセンサスは、戦争より平和を選好することである以前に、ある種の感性的なものの体制である。コンセンサスとは、当事者同士がすでに所与のものとして前提され、彼らの共同体が形づくられたものとして前提され、彼らの言葉の計算が言語遂行に等しいものとして前提されるような体制である。したがって、コンセンサスが前提にしているのは、係争の当事者と社会の当事者のあいだのずれそのものの消滅である。それは、民衆の名と民衆の自由の空虚さによって始まった、見せかけと係争と計算違いの装置の消滅である。それは、要するに、政治の消滅である。

(pp. 170-171)
実際のビラ(表)
実際のビラ(裏)

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