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イチローが象徴する「平成なるもの」

平成とは、色々な価値観がうまれて、それが光の速さで拡散して、何が正しいのか、何を目標に頑張ればいいのかということが曖昧になった時代*1と言えるとすると、その中にあってやりたいことを見つけ、それを「ひとつひとつの積み重ねのみ」で大成していくというシンプルな人生を体現していた彼の姿は、なんというか、私にとって希望そのものだった。

いや、どうしてもドラマティックな書き方をしてしまうな。イチローについて述べると、「時代」とか「希望」とか「人生」とか「価値観」とか「貫く」とか「生き様」とかそういう言葉を使いたくなってしまって、辟易してしまう。違う違う、イチローに寄りかかるんじゃねぇ。

何者かになるという強迫観念

イチローは、野球選手だ。じゃぁ、自分は何になりたいのか。実は、この問いの立て方自体が平成的だなと思う。それ以前、つまり昭和的価値観*2 では、何になりたいか、なんて真剣に考える必要はなかったはずだ。私が父親の時代に生まれていれば、いい学校に入って、いい会社に入り、幸せな家庭をつくること。これが達成できれば自分の人生に納得できたはずだ。みんなが長嶋や王になる必要などない。分をわきまえたうえで、自分の家を持ち、それぞれの家庭を守ることが、求めるべき道だった。(そして、その価値観の中で立派に生き残った父親、それを支えた母親を、私は尊敬している。)

ところが、「平成」は違う。ちょっとだけ上の世代に、イチローや、中田英寿がいて、私も彼らと同じようにしなければ、と本気で思っていた。みんな同じかどうかはわからないけれど、少なくとも私は、本当に自分と彼らを相対化して考えていた。彼らのようになるには、一刻も早く自分のやりたいこと、得意なことを見つけて、そこに時間を集中投資しなければならない。たった10歳ほどしか離れていない彼らが、何億と稼いでいるのに、自分ときたらなんだ。まだ、なにも、始めてすらいない。このままでは、何者にもなれないかもしれない、という強迫観念が浮かんだ。これこそは、「平成なるもの」の正体じゃないだろうか。つまり、インターネットという革命的技術が、情報の大量・高速流通を可能にしたことで、ヒーローが庶民化し、自分も何者かになれるかもしれないという希望が生まれる反面、何者にもなれないかもしれない、という、新しい悩みが発生したのだ。

中田英寿とイチローの違い

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