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今だから語れる西郷どん③6-10回をまとめてレビュー⑴ 「愛について」

今更ながら当シリーズ1-5回をお読みいただき、誠にありがとうございます。はやく現在に追いつかねば。頑張って書こう。

さて、6-10回は社交界…じゃなくて薩摩藩庁…でもなく、薩摩藩という社会に大きくデビューした吉之助が、初手柄を立てて大久保家の窮状を救い、両親の死や結婚を経て、社会的に1人前になり、さらに江戸デビューをも飾ります。

それにしてとロシアンルーレットと相撲は今見ても最高に面白いですね。
上級武士も当然のごとく備える薩摩の尚武の気風ということで、近代になりそうで、でもまだ近代になってはいない、不思議な時間を表していたように思います。

私はこの変化と変化の間、境界線上の微妙な時間と空間というのを見るのが好きなのですよね。

多分大河が好きなのも、大河ドラマが常にこの境界線上のリミナルな時間を取り上げるから。

AからBに変化するその一瞬を見たい。これを表現できるのはやっぱり芸術だけなんです。

しかし、続く第6回はとても難解な回でした。

突然ジョン万次郎が登場し、おそらく当時の日本になかった愛という概念を、西欧文明の発達について語ると共に、糸ちゃんが嫁に行き、大久保が失恋する。

当時は万次郎登場の意味を解釈できませんでしたが、それ以上に分からなかったのが糸ちゃんです。
史実では一回り以上年齢が離れているはずの三番目の妻・糸が、「西郷どん」では何故幼馴染みなのか。

物語が終わろうとしている今なら、糸が聡明で行動力のある優れた女性で、西郷を愛し、理解し、彼女なりに西郷と並走して来たということが、このドラマの西郷には必要だったことがわかりますが、6回の時点ではそれは本当に分からんかったですね。

しかも糸がサクッと去ってすぐに吉之助は須賀どんと結婚。

初恋、失恋、結婚、離婚と立て続けに恋愛イベントが続いてこのあたりは結構人を振い落としました。

江戸詰めの経費の調達を通して、お金も相変わらず大きく関わってくるのですが、借金の話ということで嫌悪感を示した人も多かったですね。

身分制度と貨幣と個人、篤姫の将軍家入輿や薩摩の豊富な物理スイーツが、のちの奄美での過酷な黒糖地獄の伏線となっています。

LOVEについて

なぜ突然ジョン・万が現れて技術はともかくとして、愛を語るのか。

前起きでも書いたばかりですが、もう一度書いておくと、この時代の日本に西洋的な「愛(love)」の概念はありません。

キリスト教的な無条件の愛である「アガペー」、あるいは「隣人愛」「友愛」のような概念と、ロマン主義小説的な「ロマンチックラブ」、どれも当時の日本にはない。

日本は「恋愛」というものの発見自体は非常に早かったんですが、愛というものを仏教的な無常観や、儒教的規範の中で解釈しました。

しかし、この恋愛という概念は近代意識の発生にとって、とても重要なんです。
恋愛というものを突き詰めていくと個と個の対峙に行き着く。身分とか、宗教を含む規範とか、世間の良識とか、そういうものから愛が逸脱するとき、人間は自分自身に向き合わざるを得ない。
それが近代意識の萌芽へと繋がつていくのです。

ですから、西洋の進んだ文明として技術や制度だけでなく、新しい「概念」というものに触れる衝撃を描くことは必要なことでしたし、「西郷のモテ」をテーマにするにあたって「愛とは人間にとって最も大切なもの」「命をかけるに値するもの」ということをどこかで提示しなければなりませんでした。

このドラマの「愛」「恋愛」の扱いは歴代大河と比較しても真っ当なものですね。

周囲の人を愛し、周囲から愛されることが、西郷の行動や決意はもちろん、影響力の原点として機能させるというのは斬新でした。

西郷だけではなく、主要人物たち…大久保利通、木戸孝允ら維新の三傑、徳川慶喜、島津久光、坂本龍馬、岩倉具視、全員柔らかい心の持ち主として、自分以外の誰かを深く愛している。

我々と同じように柔らかく優しい心の持ち主が、覚悟の下に起こした革命というのが、西郷どんの物語の重要な支点だということが、大久保と別れた今だから言える(笑)。

彼らはみんな惚れっぽく、裏切られたら当たり前に傷つき、泣きそうな顔で怒る。でも心の傷を真正面から乗り越えていくんですよね。

その心の柔らかさを恋愛を使って表現する。恋愛を使った歴史の描き方として、とてもいいのではないでしょうか。

ただ、語り手がジョン・万で、同時に斉彬に蒸気船の情報をもたらしたり、ジョン・万の本心を聞き出したことを西郷の初手柄にして大久保家を救済したりといったエピソードの使い方は盛りすぎ感が拭えない。

あと語りのタイミングが早すぎて飲み込めなかった。

西郷どんは、前二作と言語が違いすぎて何言ってるのかわからないことがあるんですが、ここもそんなエラーのひとつだったかな、などと思ったりします。

美しき喪女 須賀どんとその父

さて、糸ちゃんが西郷に、大久保が糸ちゃんに失恋したあと、吉之助に嫁が来ます。私の酷愛する「須賀どんエピ」でございます。

このエピは西郷どんの中では特にホームドラマというか、世話物に近い感じですね。

「嫁取り」というテーマ自体がそうですし、相撲大会で優勝した吉之助を見込んだ上役の伊集院様が、娘を嫁に出すことで吉之助と縁を結ぼうとするっていう設定、本当に昔の日本の話という感じがする。

娘を嫁にやるに値する男、という吉之助の評価のされ方も面白い。
つまり、父親世代から見た吉之助の評価が相撲大会でグッと上がったわけですね。

嫁の須賀が、美人だけど愛想がなくて不器用で常に肩肘張っていて、物事をソツなくこなすということがまるでできない、いわゆる喪女と言うのはとっても現代的なアレンジでした。

須賀どん、とてもじゃないけど、実家より良いお家に嫁に行って家族の出世の糸口になるようなことはできそうにないし、同格のお家にお嫁に行くことさえ無理そう。

そんな愛娘を、出世の見込みがありそうな下級武士の若者に嫁にやる。

家の対面も保てるし、娘にとっても普通の男よりはいいし、また西郷が出世できればラッキー。意外と悪くない賭けでありまして、愛と心配と打算が渦巻いていたろう須賀父・伊集院様の心持ちを思うと、ご飯三杯はいけますね、私。

須賀どんは吉之助を愛するようになりますが、須賀の愛が純粋であるがゆえに、貧しい下級士族の生活様式に、そして何より借金に負ける。

ここまで行くとエアーご飯でもお腹いっぱい。ごちそうさまです。

江戸詰めの支度金30両

というわけで、ここでも「お金」というものがきっちり描かれているのが面白いかったですね。

西郷家の両親が次々になくなる中、吉之助に江戸行きのチャンスが巡って来るけれど、支度金の30両が捻出できない。

ちなみに須賀どんは吉之助と離れたくなくて(本心)、借金を抱えていつ帰って来るかわからない旦那さぁを待つ極貧生活なんてごめんです(本音)と江戸行きに反対します。

(本音と本心の微妙なニュアンスの違いがすごく美味しい須賀どん)

ちょっとこの回を見返したらですね、正助が須賀に「こないな嫁のいいなりになって!!」と本当に憎々しげに激怒していたので、控えめに言って爆笑しました。

そんなこんなで結局、大久保正助が意地になって金策に奔走することになります。

放送当時は自身と父の謹慎解除を斉彬様に掛け合ってくれた西郷に恩を返すべく頑張ってるんだわーと思っていましたが、今ならこの頃から「正助の気持ち的には正妻だったから」と確信を持って言えるわ。

正妻は当然のように、金貸しの板垣様のところにも行って、吉之助の江戸行きの支度金を自分に融資してくれ、と頭をさげます。

頼まれた板垣様はどうしたかと言うと、餞別として5両を援助するんですね。正助の話を聞いたあと、
懐から包んだ、つまり事前に用意されていたお金が出てくる。

これは、西郷家にこれ以上借金増やす力がないこと、情だけで突っ走る大久保の返済能力も期待できないということを、板垣様はよく分かっていたと言うことでしょう。
かと言って西郷の江戸行きがなくなれば西郷家の借金の返済も滞るかもしれない。
板垣様的には西郷に出世してもらって速やかに金を返してもらう方が望ましい。
地域の親分として、吉之助の江戸行きにどのような態度を取るか、共同体に見られてもいる。

などなど諸々を勘案して、西郷の江戸行きについて何か言ってきたら5両を援助しようと板垣様は以前から準備していたと言うことが、あの包まれた五両に表現されているわけです。

そして須賀どんもこれ以上西郷家が借金を増やすことはできないと判断して、妻として江戸行きを支えられない、自身のわがままに対する手切れ金として20両を吉之助に残して去る。

吉之助は、郷中仲間からの借金と、板垣様からの援助と、須賀からの手切れ金で江戸にいく。

ここで語られているのは、吉之助の信用、将来性です。信用によって個人が判別される。近代を前に、日本ではすでにそういうことが起こっている。

一方で大名家はすでに早々には返せないほどの借金を抱えている。実際に後に債務不履行を起こしますね。一方西郷家は明治維新の頃、なんとか借金を返す。

このドラマにおける西郷隆盛は、人の期待で膨れ上がった空っぽの器ですが、その担保は彼の金銭的無欲というかね、純粋さと貧しさと誠実というかね、ほんとこの辺の中園さんの人間を見る目は恐ろしいと思いますね。

…などと楽しく書いていたらヒー様と左内に行き着けなかった。文字数もあれなんで、次回につづきます。

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