『王子の狐②』

「東京が江戸と呼ばれていた時分、王子稲荷、今で言う東京北区王子には、たいそう人を化かすのがうまい狐がいたそうです。初夏のさわやかなある日、狐のオキヌが今日も人間の男を騙して食事にありつこうと、山から街まで下りてきました。ところが、その一部始終を村に住む権兵衛が見てしまっていたのです」

『あれまぁ、王子の狐はよく人を化かすと聞くが、よもや、人間に化けたところをこの目で見るとはのぅ。このまま黙ってたら、誰かが騙されてしまうかもしれん』

「さすがに見てみぬ振りはできぬと思った権兵衛は、『いっそ、化かされた振りをしてやろう』と大胆にも、自分の方からオキヌに声をかけたのです」

『おう、久しぶりだなぁ。俺だよ。熊だよ。おっかさんは元気しとるかい?』
『え?』
『なんだい? 俺の顔を忘れたんか? 近所の山に住んどるきこりの熊だよ。子供の頃はよう遊んだじゃろ。しかしまぁ、よう見んうちにえらくべっぴんさんになって~』
『あら、やだ。熊さんの顔を忘れるわけないじゃない。いきなりだったからびっくりしただけよ。どうしたの? こんな所で』
『立ち話もなんだ。どっか飯屋でも入らないか? ちと、小腹が空いちまった』
『いいわね。あそこのそば屋さんなんてどうかしら?』

「カモを見付けた、と思った狐は権兵衛の話を合わせて、二人はそば屋へ入っていきました」

 左近の話し方は滑らかで、才能も感じさせる。だが、客の年齢によって、その聞き方はまるで違っていた。

 ちらりと横を見ると、元々落語が好きで来たような大学生くらいの青年はオチが読めているのかにやにやとした顔で聞いていたが、小学生たちはストーリーが頭の中で想像できないのか、退屈そうにしていた。

「そば屋に入ったオキヌは真っ先にきつねそばなどを注文し、差しつ差されつやっていると、権兵衛に酒を呑まされたオキヌはすっかり酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。そこで権兵衛は『しめた!』と思い、『勘定は女が払う』と言い残すや、狐を置いてさっさと帰ってしまいました。しばらくして、店の者に起こされたオキヌは、男が帰ってしまったと聞いて驚いた。びっくりしたあまり、耳がピンと立ち、尻尾がにゅっと生える始末。正体露見に今度は店の者が驚いて狐を追いかけ回し、狐はほうほうの体で逃げ出したのでした」

 左門が扇子を開き、自慢したくてたまらないという笑みを浮かべながら、会場に語りかける。

『おう、聞いてくれや。こないだ、人間に化ける狐を見て、そいつを化かしてやったんだぜ』

「狐を騙した権兵衛は得意げに友人にその話をすると、『ひどいことをしたもんだ。狐は執念深いぞ』と脅かされます。最初は馬鹿馬鹿しいと思っていた権兵衛も、一晩、頭を冷やすと『悪いことしなぁ』と、王子まで詫びにやってきました。巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に『昨日は悪いことをした。謝っといてくれ』と手土産を言付けると、その子狐、穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている側まで来て、『今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった』と母狐に手土産を渡しました。警戒しながら開けてみると、中身は美味そうなぼた餅ではないですか」

『母ちゃん、美味しそうだよ。食べてもいいかい?』

『いけないよ! 馬の糞かもしれない。人間は狐を化かすんだからね!』

「……おあとがよろしいようで」

 わはははっ! 
 再び左近が深々とお辞儀をすると、客席から笑いがおこった。

「えっ? 今の笑いどころはどこ???」

 現代の一発ネタで笑わそうとするコメディ時代を生きている梓には、話の内容は理解できたが、笑いのツボには届かなかった。

 今のがフリで、ここから面白いことを言うのだと思っていたのだ。むしろ、よくいままで黙って聞いていたものだと、風音が感心していたくらいだった。

「アズには難しすぎたかの。狐が人を化かすのではなく、狐が人を化かすということを狐がさも当たり前のように言うのが面白いんじゃ」

 昭雄は左近の話に満足したようだ。梓に笑いながらそっと教えてくれた。

「ふむー。それはわかるんだけど。なんだかなー」

 納得のいかない梓。
 前座が終わり、黒いカーテンがするするっとステージにおりてきた。一時休憩らしい。

「よーし。……ロビーに行ってくるね。風音、行くよ」
「えっ、ちょ、ちょっとっ」
「おーい。どこに行くんじゃー」

 一郎と昭雄は寂しそうな声をあげたが、二人に行き先を告げれば十中八、九止められただろう。
 風音の手を引っ張りながら、梓は聞こえないふりをして勢いよくロビーへと飛び出した。

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