怒りが原動力になる時
先日、久しぶりに人前で自分の体験を話す機会をいただきました。
内容は主に、僕のヨルダンでのシリア難民支援についてだったのですが、最初の自己紹介がてら、初めて難民支援という現場を経験したギリシャでの話もしました。
終わった後、3年前の今頃撮った写真を見ながら自分のいわゆる「原体験」を振り返り、自分がその時感じたこと、なぜこの道に進もうと思ったのかを振り返っていました。
するとそれは共感ではなく、怒りだったのかもしれないと思えてきたのです。
「ヨーロッパの地獄」
僕の働いていた難民キャンプは、ギリシャ北部、マケドニアとの国境地帯に存在し、ヨーロッパを目指すシリアやイラク、アフガニスタンといった国々からの難民と呼ばれる人々が、閉じられた国境を前に何週間もギリギリの生活を送っていました。
絶え間なく雨は降り続け、夜には氷点下近くにもなる中で食糧、水、衣服、衛生品など物資が全てが不足しており、夕方には毎日大きな抗議デモが起きていました。
あるシリア人のお父さんが「ヨーロッパの地獄へようこそ」と皮肉交じりに語っていましたが、地獄という言葉以外にその場を表すのに相応しい言葉はなかったと思います。
共感ではなく、怒りが原動力に
このキャンプで2ヵ月半、支援に携わり、多くの人たちと関わった僕。
その後もこの経験を伝えるべく発信に力を入れたり、卒業論文でもこの体験をベースに14万字を書きました。
それほどまでに僕を引き付けたものは何だったのか。
今改めて思うに、それは彼らをこの状況に追い込んだ不条理、そしてそれを変えられない自分の無力さへの怒りだったのかもしれません。
よく「人を動かす力は共感だ」とも言われますが、この難民キャンプの状況は、そこで働いていた僕でさえも想像を絶しており、共感などできるものではありませんでした。
この原動力としての怒り。「変えなくてはならない」という怒り。
そしてそれを行動に移すための冷静さ。
本当に人を動かす力は、この「冷静な怒り」なのかもしれないと感じました。
知ってもらうだけでは足りない、共感してもらうだけでは足りない。
一緒に怒ってくれる人を作ることが、僕たちが「無いことにしている」不条理を崩していく力になるのかもしれません。
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