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紙の舟 ep.2

僕は名前を書いた紙に連絡先を入れてもらい、明日連絡する約束をした。
採用の可否は僕たちで出来るのだが、心配なのは、またすぐ辞められてしまうこと、言葉の不理解で意思疎通が計られず、誤解を生ずること、そして肝心なことは、ちゃんと客のオーダーに応えられる業務ができるかだ。
この面接では、即決できない。
僕は、ざっくばらんな話をすることにした。相手の日本語理解を確かめるためだ。
「中国といえば文革*だが、覚えている?」
「知っている。小さい時の記憶がある。でも、お姉さんがよく知ってるよ。あれ、怖かったよ。」
「今の民主化運動、天安門で繰り広げられている。学生たちが頑張っているが、江さんはどう思う?」
「民主化は必要よ。今の中国、遅れている。民主化を阻害しているのは、李鵬や鄧小平らよ。彼らの一族が、色んなところに実権握っている。だから才能ある人でも上に行けないわ。李鵬や鄧小平悪いよ。」
「しかし、あの天安門、広いんだね。そしてあの学生の数、中国っていうのは人が沢山いるのだね。」と、店長が聞くと、
「中国、人多いね。沢山いるよ。でも、皆貧しいよ。日本豊かで何でもある。中国も、早く民主化必要よ。」
「あそこに集まっている学生や市民の人というのは、みんな反体制なのかね。」と店長は問いかけるが、江さんはよく聞き取れないのか、首を傾げている。
「いや、店長、民主化イコール反体制じゃないですよ。資本主義的経済導入の評価は別にして、資本主義を選択せよと言ってる訳じゃないですよ。」僕は、江さんを見て話した。
「この間も、ニュースの中で天安門の学生が『昔は、皆貧しかった。その意味では皆平等だった。経済特区ができて、貧富の差が生まれた』と言っていたが、社会主義に階級が生まれつつあるという風に考えているみたいです。
他の学生も色々な言い方をしているけど、僕の見たスローガンからは、反体制ではないですね。むしろ共産党らしくしようとしているように見える。
スローガンの中に『人の支配から法の支配へ』というのがあったが、中国の憲法というのは過渡的であれものすごく民主的なんだけど、そのような憲法に沿った支配じゃなくて、今では個人的、一族的支配で、それを法の支配にもどせという、当然の要求でしょう。
また、自由ということも、そういった『人』の支配からの自由だと思いますよ。
アメリカのように何でも買える自由というには、今の中国の経済からいっても、要求として無理です。日本やアメリカは、その辺を自由の要求イコール資本主義的自由という風に報道しているけど、決してそんなんじゃない。」
僕は現在の民主化闘争を、党内闘争と考えていた。それは、本来ならば今に至る共産党の内実が歴史的に総括されなければならないものだった。中国共産党の歴史が大衆に矛盾を蓄積させてきたのだから。
人類解放の思想と実践が、共産主義的でなかったが故に、民主化という方針ではなく、より基本的にはどのような改革がより共産主義的であるのかという本質を巡って、この党内闘争があるだろう。
そのような党内闘争を見据えた大衆の側の矛盾の爆発として、ここに民主化闘争が起こっている。僕には、そう映っていた。
「そうじゃないのかな、江さん。」
彼女は、良く理解できないようだ。困ったように僕を見ている。
大きく見開いた目は澄んでいて、とてもきれいだ。
僕は心の中で、この娘を採用してみようと思った。
「突っ込んだ話になってしまったようだね。八ヵ月の滞在じゃ、まだ日本語も理解しづらいだろう。難しい話に聞こえたらあやまるよ。」
すると彼女は
「でも、民主化は必要よ。」と言う。
ひょっとしてこの子は、民主化の闘士なのかな、と考えたりもした。それならば面白いのだがと一人で思っていた。
「それじゃ、採用するかどうかは、こちらから電話することにして、明日夜、この電話番号に電話します。時間も指定しておくくので必ず家に居てください。夜七時に電話します。分かりましたね。」
彼女は立ち上がり、ハイッと大きな声で応え、丁寧に深々とお辞儀をして事務所を去った。
僕は、店長と向かい合った。
「どうです、店長。」
「大丈夫かね。オヤジ(社長)もOKするかね。」
「この間三人も入れて、すぐ辞めたぐらいですよ。どうせすぐ辞めるのなら、中国人だって同じですよ。もし、長くやってもらえれば、見っけものです。」
「言葉は大丈夫かね。」店長は、だいぶ躊躇している。
「八ヵ月であの調子ですから、立派なものですよ。大丈夫だと思いますよ。」
「新聞募集も続いているのだから、明日まで待ってみて、いいのが来なければ、早瀬さんにまかせますよ。」

翌日の夜、僕はテレビのニュースを見終わって事務所に入った。ニュースでは、天安門の「自由の女神」が大きく映っていた。
七時にダイヤルを回して、江さんにかけた。電話先はお姉さんのところになっている。
しばらく呼び出しが鳴って女性が出た。江さんだった。
「採用することになったので連絡します。来るときには、履歴書、それに写真を貼って持ってきてください。」
仕事には、明後日の夕方から入ることを確認した。彼女は、採用が決まったことに嬉しそうだった。
「必ず、時間通りに来てくださいね。」
僕は、その事を繰り返し念押ししていた。
僕にも、不安があるのだ。

*:文化大革命

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