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紙の舟 ep.6

だが日付も六月四日に移ってからの事態の急変は、それを伝えるニュースを見ていた僕には驚きだった。権力としてはあまりに愚直な対応の仕方だ。
戦車が学生をなぎ倒し、キャタピラで轢き殺しているという。ここそこで銃が乱射され犠牲者を増やしている。銃が人民に向けられ、子供といわずそれを庇う老女までもが対象にされた。
“これは暴乱である”と当局は言う。暴乱と動乱はどう違うのか。革命なのか反革命なのか、それは誰が決めるのか。
見える筈の映像は映らず、その時テレビはラジオ化し、電波は全て刻々と伝えられる混乱した情報の紹介であり、それぞれの解説者の見解であった。僕は朝までテレビにくぎ付けになって聞いていた。
錯綜した報道の亀裂に見える民主化運動の結末は、敷き詰められた血の海に通じていた。それはあたかも、資本主義導入という熱せられた鉄板の上に踊らされた自由の囚人のようでいて、僕は涙が止まらなかった。
民主化の西側向けの非暴力のポーズは、自国民への結節点には成り得ない無言の悲劇となった。西側が沸いて、主催者が倒れた。否、ここでは西側が主催者だった。
このままでは、国際世論は黙っていないだろう。ニュースは目に見える形で世界に波及している。それはそれで一つの力だ。だが解決しなければならないのは中国人民自身なのだ。
どこかで反乱がおこるだろうか。中国人民は立ちあがるだろうか。江はどう答えるだろう。僕はまず、彼女に訊ねてみようと思った。

翌日、僕は遅番の江が立つカウンターに向かった。見ると、江は何も無かったかのように振舞っていた。
「おはよう。」
僕の挨拶に、江は明るく「おはよう。」と応えた。
その明るさに僕は出鼻を挫かれてしまい、それ以上言葉を交わす気にはなれなかった。僕は、真剣に悩んでいる彼女の姿を想像していたからだ。
だが、そのように振舞う彼女に、ある種のガードを感じた。それは彼女が今まで以上に仕事に夢中になっているという、その一点から僕は納得した。
もし彼女が傷ついているのなら、僕はあえてその傷を探ることはしない方がいい、そう考えた。
その翌日も、僕は江とはあまり話を交わすことはなかった。

天安門の事件から暫くして、僕はそれとなく江に話しかけてみた。
「江さん、天安門のこと知っていると思うけど、どう思う。」
彼女は返事に窮しているようで「う〜ん」と唸っている。
そこに客が来て、彼女はしばらくその対応をし、その間僕はコンピーターのデーターに目を移していた。
突然、「早瀬さん」と彼女が語りかけてきた。
この間、僕が直接名前を呼ばれたのは仕事上のことで二〜三回しかない。彼女は僕の名前を知らないのではないかと、それまで思っていたぐらいだった。
「前に話したこと、無かったことにしてほしい。」
「何?民主化のこと?」
「うん」
「天安門のことでか?」
「うん。私、民主化運動、上手くいくと考えなかった。これ、本当よ。中国、官僚の力すごいよ。鄧小平、李鵬、どこでも実権握っている。」
彼女は、本当は色々話したいのだろうが、上手く表現できないのか、それ以上話せないのか、後は言葉を噤んだ。
その時、僕は彼女に希望を与えてあげたかった。動揺した表情は僕にもよくわかる。
六月四日以降の中国当局の対応は素早かった。かの公安が20〜30名も入国している旨の情報は僕の耳に入っていた。僕は心配もあり、意識して彼女にそのことを伝えた。見方によっては意地悪な仕打ちだ。
「中国、怖いよ。私、色々聞いている。海外に出た人、帰ってから公安に呼ばれたの。自分の憶えていないことまで全部知っていたね。誰かが報告している。幸い戻ってきた人いいけど、戻って来れない人もいると聞いた。これ、怖いね。私、誰も信じられないの。今、学校に中国から来ている人、沢山いるね。でも私、誰とも話もしない。私、友人一人もいない。」
「それじゃ、相談する相手もいないということだね。」
「うん。」と江はポツンと呟いた。
言葉も思うように通じない他国で、しかも一人でいるというのは淋しいことだ。それも同じ国の人がいて信じられない関係というのは、孤独以外の何ものでもない。
「以前、友だちを沢山作りなさいと言ったことがある。今の君の立場では、自分で作るというのは無理だろう。日本の人で君の立場を理解してくれる人や、中国語の出来る人に僕の方から当たってみよう。」
「早瀬さんは以前、台湾の人、友人にいると言ったね。」
「そう、そうだ! 台湾の友人たちに連絡を取ってみよう。そこで中国語で話のできるすばらしい人がいれば、そこから新しい関係が生まれるかもね。」
僕は勝手に媒酌人になっていた。ここでそれまでの僕の人脈が活かせる。やっと僕の出番が来たのか。
「私、中国に帰りたくないね。日本で勉強したいね。」
「少しでも長く居て、その間に身の振り方を考えればいい。僕に出来ることがあれば手を貸すよ。」
「ありがとう。」
「ところで、今の中国大変だと思うが、悲観的に考えなくてもいいよ。あと十年もすれば、変わっていると思うよ。」
「十年後、私、四十歳よ。遅いよ。でも、どうしてそう言うの。」
彼女は不思議そうに僕を見た。僕はかいつまんで話した。
ひとつは、今回の事件が体制側にとって大きな反動を引き起こすとしても、世界史的なターニングポイントになること、実際、この間の綻びは今後十年間というスパンで考えると経済的にも政治的にも大きな変化を呼ぶ、そしてその間に高齢化した今の主役がいなくなること、これも大きなことだ。更に必然的なこととして、前向きに政策を検討しなければならないとしたら、現体制を乗り越える思想革命を通して新しい政治が生まれてくるだろう。西側に出て見聞を広めた人たちの経験が生かされる。
そして何よりも、日本を含め現在先進国と呼ばれてる国々の凋落化傾向、構造的不況が現実のものとなるであろうし、そのことによる相対的力関係、経済関係が逆転する要素が多いことなどを彼女に伝えた。その上、中国の人口を活かすことに成功したら、これは大きい。


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