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【小説】ぼくとおじさんと ep.1

夜中、目が覚めた。
暗闇に目を慣らせてぼんやりと壁に掛かる時計に目をやる。二時半だった。
トイレで用を足し、そのままガラス戸を開けてぺらぺらの建屋に作ったベランダに出る。
四月でも肌寒い外気の中を、隅に置いてある古イスに腰かけ持ってきたタバコに火をつけた。
仰ぐ空は星も無く、淡い月の光がうすみどりに切りひろげられ、その上を覆うように墨汁を散らしたような天空がぼくを覗いている。
ベランダからは駅と公園がかろうじて見えるぐらいに、雄々しく居並ぶマンション群が空と道路の間を仕切っている。道筋に点在する街路灯とコンクリートに据えられたマンションの非常灯だけがひと際目立って闇に浮かぶ。
目の前の大きなマンションの壁の縁からのぞくように、剃れ欠けた半月が架かっていた。
ぼくは寝るときに漠然と頭に残っていてそのまま寝てしまった、おじさんと文のことを思い返していた。
いつものおじさんの話は僕にとって夜の暖炉で聴く昔話なのでそのまま寝る事を促してくれるのだが、昨日の話は今のぼくに暗闇の空を眺めながら漠然とだが、僕という人間の生死にかかわる事として頭にこびりついていた。
おじさんの常套句「教科書には書いていないが」などと言うのだが、そもそも教科書に書いてあったこともぼくの頭には残っていないのだ。
ただ、そこで言っていた人類の虐殺の話が頭の隅に入っていて、何故か夜の空を見ているとおじさんの話がブリ返えして来る。
おじさんはいつも熱い。いつもこのままではいけないと唾を飛ばして語りかけてくる。
あの語り口はおじさんの性格なのだろうか、おじさんの時代を生きてきた一つの責任感からなのだろうか。
ぼくはあんなに熱くなれない。いまの時代を批判しているのだろうが、そんな今の時代にぼくは生まれて今まで生きてきた。不満や嫌なことがあっても、そんな社会や世界が当たり前の中で生きてきた。漠然として何かしら見えない社会と向き合っても何も得る事がないといつも思っていた。
だからぼくの心配事は皆と同じ。生活費とバイトのシフト組み、そしてバイク購入資金への貯金達成金額でしかなかった。そして親父の残した借金と。
おじさんの言う虐殺といっても、そもそも戦争で多くの人が死んだことも虐殺に近いのだろうが、平和な日本ではそんな大虐殺なんて想像もできないし、そもそも歴史とは虐殺の歴史だとしても僕にとって教科書的な実感のない事実なのかもしれない。それは試験に出るか出ないかで悩む事柄でしかなかった。
だからおじさんの話も教科書的に耳に入ってそのまま素通りするものだったのだが、昨日の話はなぜかぼくの耳の奥に残っていた。
夜空の闇を見上げながら、虐殺に会わずに今ここに生きている僕の不思議に心が動いたのか知れない。生かされていると言ったらかっこいいが、昨日までのぼくは惨めに生かされていたのだろう。

色々な事があった一日だった。
昨日は過ぎた。新たな今日の一日が始まっている。
一日、そして時間は万人に平等に与えられている。
ぼくの一日は、もう一寝入りして始まる。

こんな時間だ、外は冷えてきた。大気の冷たさとベランダの冷え込みが身に染みてきたようだ。
みんな寝ている。それが闇ー。それが夜。
ぼくは布団に戻って温めなおして朝まで寝よう。そして一日を始めよう。

きのうのことだった。
文とは久しぶりだ。
行きつけの茶店で彼女を待っていると、おじさんが入って来た。ぼくに気が付かないようだったので声を掛けた。
「どうした武志、暇を持て余しているのか。」おじさんの問いかけはいつもそうだ。
「別に。」ぼくのいつもの返事だ。
ここはおじさんのいつものコースだったのか。彼女が来たら早く出よう。おじさんと話をしたら長くなりそうなので、彼女との時間が潰されてしまう。
おじさんが一人で話し始めるのと同時に文が入って来た。
「あら、おじさんも一緒だったんだ。お久しぶり。相変わらず元気そうですね。」
文はそのまま僕の横に座り、コーヒーを注文した。
「文ちゃんは相変わらず可愛いね。二人ともいつ結婚するんだ。」
「結婚だなんて。考えてもいないわ。」おじさんも文ももう会話が始まっている。
「結婚だって何だって、ああだこうだ言っているうちにあっという間に皺くちゃの爺さん婆さんになってしまうんだ。俺のようにな。」
「あれ、おじさんお爺さんなの。」文は素っ頓狂な声を出して笑いだす。
「人生あっという間に過ぎる。気が付いたら棺桶の中にいる事になるのだ。」
「そうか、ドラキュラが棺桶から出てくるのは、自分が死んだことに気が付いていないからなのね。」と言いながら文はまた笑いだす。
すると、おじさんはまじめな顔で答える。「だから腹が空くと起きるのだ。血が栄養エキスであることを知っているからね。すぐ手に入る血を欲しがるのだよ。」
「だったら点滴でもいいみたい。栄養一杯だから。」そう言って文は笑い続ける。
「脳死の人間が点滴で生かされているよな。死んだ人間でも生きているか。似たようなものだ。」
喫茶店のホールの中を探りながら綺麗な人を探しているのか、横を向いてるおじさんの表情は見えないが、真面目そうな声で返事をしている。
ドラキュラと点滴がどうつながるのかぼくにはわからないが、酒が飲みたくなってきた。
ぼくは文に「北の屋に行こうか。」と誘った。僕たちには安くて腹持ちの良い居酒屋だ。
「もう行くのか。俺も相席していいか。」おじさんが文に声を掛けた。
「話の続きをしてくれるのなら、大歓迎よ。お酒と時間を楽しみましょうよ。」
文はカラっと受けている。理由はないのだが、ぼくの気持ちが少し重くなった。

ぼくたちは喫茶店を出て駅に向かい、駅沿いに構える北の屋に入った。
まだ明るい夕方なので店内は空いていた。おじさんと文の二人は入り口に近いテーブル席に座った。
ぼくは文と二人の時は奥の座敷に入るのだが、今日は早めに出るつもりで、入り口近くのテーブルもいいのかもしれない。
二人は話続けている。
「注文しようよ。」二人の話をさえぎるように、ぼくは注文を取った。
ビールで乾杯をし、文に話しかける。
「研究論文の話をしていたけど、進んでいるの?」
「まだまだよ。データーが少ないので書き込めないの。」
文は少し寂しそうに応えた。
するとおじさんが口を挟む。
「文ちゃんは忙しく、武志は暇か。武志、少し頑張れよ。」
頑張れと言われても、何を頑張るのだよ。脈絡のない話に、ビールのホップの苦さが胸を突く。
「なんだ、二人とも中学、高校のホープだったじゃないか。結婚するのだろう。」
また、結婚という。ぼくなり文がどう応えていいのか。
近所だからぼくも文も小学校も中学校も高校も一緒で、成績ではお互いはそこそこだった。
高校に入って、クラスは違っても理系で進学するつもりだったが、頭のいい奴がたくさんいる事で勉強への興味と自分に対しての自信が無くなり、勉強を呆けていた時があった。
そんな時、ぼくを励ましてくれていたのが文、文乃だ。
文は理科大に受かり生物化学の道を歩んでいる。ぼくは方針があいまいなまま理系進学から進路変更をして経済で受験した
別々の大学だったが、文の父親の転勤で彼女が部屋を借り自立することになり、ぼくの大学四年間は彼女の部屋に泊まり込み、居候生活をしていた。
おじさんが彼女と結婚というのは、そんな生活を知った上で付き合っていることを言っているのだろう。
大学を出て、ぼくは居候を辞めた。それは家の事情と、めりはりのないそんな関係が彼女の負担になると思ったからだ。
何の答えも考えてこなかったので、今更おじさんに結婚なんて言われても、ぼくには何も応えられない。
「そんな事より、おじさんの結婚はどうだったの。」
ぼくがおじさんの問いに合わせるように聞き返すと文の顔色が変わった。
ぼくはおじさんが恋愛結婚だと聞いていた。その奥さんは数年前に亡くなっていたのだが、そんなおじさんに結婚という言葉を返したかったのだ。おのろけの言葉を期待していた。
だから文の慌てた目配りが意外だった。
おじさんはだだ「結婚か。いもんだよ。」と、平然と短く応えた。そしてまた「結婚するのか。」を繰り返して来た。文は顔を伏せ下を見ていた。
文が視線をおじさんから離したのを見て、おじさんは文に「トイレに行ってくる。」と言って席を立った。
おじさんの姿が見えなくなったのを確認して、文がぼくに向き直して口を開いた。
「おじさんには結婚とか、奥さんの話はしちゃいけないの。知っているでしょう。」
確かにおじさんは奥さんを愛していた。だから奥さんが無くなった後、茫然自失と言っていいほど落ち込んでいた。それは僕が見ていても気の毒なほどだった。しばらくは何も手に付かないほどだった。
やがて気を取り直したのか、むきになったのか、小さな塾の講師の仕事に集中し始めた。定年の後は自宅で私塾をはじめた事は知っているが、そのことと結婚話がどうつながるのかぼくにはわからない。
「おじさんには、奥さんを思い出すことが辛いことなのよ。唯一おじさんの心を支えてくれた人だったの。どんな家庭生活だったのか。結婚という言葉で奥さんと二人の思い出がよみがえることが今なお辛いことなのよ。だから冗談でも結婚という言葉は、おじさんの前では安易に言わないでよ。」
「だって、おじさんから言い始めたんじゃないか。結婚って。」
「それは私たちを心配して言ってくれたのよ。分かってあげてよ。」文の話す一言一言が、強く口から押し出されている。
それはぼくと文との関係の、ぼくの敗北宣言でしかない結婚観からはおじさんの質問への答えなんてありゃしないわけで、だから反対にそれを聞いてくるおじさんへの質問状でもあったのだ。
だからここで、文がぼくを責める意味が分からない。おじさんの結婚観を聞いてみたかったのだ。
成り立たない会話を繰り返しているとおじさんが戻って来た。

席に腰かけるや否や文がおじさんに話しかける。
「前にも話したのだけれど私、戦国時代と言おうか戦国武将に興味があるので色々教えてもらいたいの。今の若い女性のトレンディなアイテムなのはご存知でしょう。」
また急な話題提起だが、教えることが好きなだけに塾をやってるおじさんの気を引こうという魂胆なのは火を見るより明らかだ。
おじさんは頼まれごとには、丁寧に応えてくれる。職業柄なのだろう。
「戦国時代か。ところで文ちゃんは誰が好きなのかな。」
「私は織田信長かしら。それまでの世の中のあり方が戦国時代で変わったと思っているの。その中で織田信長は抜きんでているように私には映るの。」
おじさんは文の顔を見ながら嬉しそうにうなずいている。
「じゃあ、文ちゃんはどんなところで織田信長を評価しているのかな。」
「私の読んだ本なんてそんなにないけれど、それでも目につくままを読んでいると、彼の人間性が読めるようで面白かった。」
おじさんは文の話をまとめているようで、文に話を薦める。
「それで。」
ぼくは酒を飲みながら世間話で時を過ごしたいのだが、二人の話はぼくの希望する世界を超えていた。
ぼくは手元の水の入ったグラスを見つめていた。座敷にかかるガラス戸に照り返す厨房から飛び出した電球の光がグラスに照り返し、中の水とジョッキーの色が混ざり合って淡い褐色をテーブルの隅に落としていた。
ぼくは淡い光陰に手をかざし、おじさんとおばさんの結婚のことを考えていた。


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