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05. 家出娘②(She's Leaving Home)

出だしはおおむね順調だった、ような気がする。

ゆるゆると授業に出るうち、ナツヒコ君という男の子と仲良くなり、最初の夏休みにお付き合いが始まった。GHQと称し、お互いサークルには入っていなかったので、スキマ時間さえ見つけては学食に入り浸った。家からは十分すぎるほどの仕送りがあったのでお金の心配はなかったが、少しでも自立したかったのかもしれない。お洒落なカフェで週に三回アルバイトをしてもみた。

門限を気にする必要がなければ、いちいち誰かに行き先を告げる必要もない。好きな時に、好きなように、好きなことを好きなだけすることが出来た。


年に一度の帰省を除いては、限りなく自由でいることが許された。


ある時点まで、わたしの大学生活は、結構うまくいっていた。



 ***



心地よい追い風が止み始めたのは、大学生活も終わりに近づいた頃のことだった。そのタイミングは、かなりはっきり言い当てることが出来る。就職活動が本格化した大学四年の夏休みだ。

公園のベンチに座っていたところで、ナツヒコ君がとんでもないことを言いだしたのだ。


「おれ、外国へ行こうと思う」

「就活も終わっていないのに、卒業旅行?」

「いや、そういうことじゃなくて」


ナツヒコ君の表情は暗い。わたしにはわかっていた。その後、彼の口からどんな言葉が出てくるかを。なにせ大学時代をほとんど一緒に過ごしたのだ。彼の言わんとすることくらい、一目見てすぐわかる。

だからわたしは、わざと気づかないふりをして、彼の言葉を必死にさえぎった。見たくない事実を少しでも遠くへ追いやるよう。ぼやかし、見えなくするよう。必死に彼をさえぎった。

やがて、わたしの視界が涙で濡れ、曇ったところで、彼はとうとうはっきり言った。


「あのさ、おれ、卒業したら海外に行きたい。だからサツキとは離れ離れになる」

「どうして」


どうして、って自分でも何がどうしてなのかわからない。どうして行くの。どうして離れなくちゃいけないの。どうしてそんなひどいこと言うの。

色んな「どうして」が胸の内から溢れ出し、押しとどめておくことが出来なかった。ベンチの前を通り過ぎていく人たちが、気まずそうにこちらを見ていくが、そんなことに構っている余裕はない。次々出てくるぐちゃぐちゃの感情に、わたしはどう対処すべきかわからなかった。


予感がなかったわけではない。


彼が海外での生活に興味を持っていることは知っていたし、二人で海外旅行へ出かけたときは、子どもみたいに目を輝かせていたのを覚えている。

たぶん、遅かれ早かれこうなる運命だったのだろう。二人で過ごせた三年ちょっとの時間。神様がくれた幸せな時間。ナツヒコ君のおかげで、わたしの大学生活はずいぶん彩り鮮やかになった。たぶん、何十年後かに振り返れば、温かな気持ちで笑えたりするんだろう。

「わかった」わたしはこくりと頷いた。「わたしたち、お別れだね」

「どうしてそうなるの? おれはただ…」

「ダメだよ、そんなの」

「なにも別れることはない。おれはただ、海外へ行きたいだけ。離れ離れになるけど、サツキとはずっと一緒にいたい」

「離れ離れだけど一緒、って意味わからない。海外からはいつ帰ってくるの? 二年後、三年後、それとも十年後? 先も見えないのに、ずっと待っていられると思う?」

「じゃあ、サツキもこっちへ来ればいい。海外で一緒に暮らそう」

「そんなの、出来るわけないじゃん」


ナツヒコ君は黙り込んでしまう。きっと、自分でも無茶なことを言っている自覚はあったのだろう。俯き、次に続けるべき言葉を探していた。もちろんそんなもの見つかるはずもなく、時間だけがむなしく過ぎていく。

その後わたしたちはいくつかのひどい言葉―それも、結構ひどい―を交わし、別れた。破局した。はじめの内は何かの間違いだろうと楽観していたが、それきり、毎日来ていたLINEへの連絡は、ぷつりと途絶えてしまった。

日常で些細な出来事があると、ああナツヒコ君へ教えてあげよう、と思い反射的にLINEを開き、彼とのお別れを少し遅れて思い出す、という悲しい日々がしばらくの間続いた。

わたしが彼との別れを心の中で受け入れたのは、わたしの内定先が決まった頃のことだった。ナツヒコ君の季節である夏は、既に終わりに差し掛かっていた。

(to be continued)

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