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04. 穴を埋める (Fixing a Hole)

秋彦が大学の構内をとぼとぼ歩いていると、背後から声を掛ける者があった。


「元気ないね」孝太郎だ。「ひょっとして、彼女にでも振られた? あるいは面接に落ちたとか」

「正解」と秋彦は答える。

「どっちが?」孝太郎は首をかしげる。

「どっちも」

「つまり、彼女と別れ、就活もうまくいっていないと」

「そういうことになる」


秋彦はため息をついた。ひらひら落ちた銀杏の葉が、並木道の絨毯を黄色く染める。秋彦が生まれた季節、秋だ。本来なら彼が最も輝くべき時だ。

けれど、いまの秋彦はそういうわけにもいかない。大学四年のこの時期に、スーツで学内を歩くこと。それは就職活動がうまくいかなかったことを意味するからだ。

大半の学生は就職先を無事見つけ、卒論やら卒業旅行やらに頭を悩ませている。いまだに就職活動を続けているのは、よほど高望みをしているか、トロいか、あるいは怠け者か。そのどれかだ。「敗残者」のレッテルを無言のうちに貼られるのは避けられず、その結果、秋彦は友人たちの輪から自然と離れていった。友人たちの就職先自慢を聞くのが、いたたまれなくなったのだ。

そんな調子だから恋人ともうまくいかない。甲斐性なしを不安に思う彼女と、それに反発する秋彦。喧嘩の数だけを着実に重ね、ついには破局に至ってしまった。別れてひと月も経たぬうち、他の男と歩いているのを見た、という噂もあるが、秋彦にとってはもはやどうでもいい話だった。


「いまだに引きずっているだろう」


孝太郎はにやにや笑いながら、秋彦の背中を叩いた。

「別に」

「お前の『別に』は信用できないから。いいよ、酒でも飲んで忘れよう。俺がおごるよ。昼から飲むビールは最高だ」


これから授業が、などという秋彦の声には耳を貸さない。孝太郎は秋彦を生協まで無理やり引っ張っていくと、ビールやポテチをいくつか買い込んだ。
昼下がりの晴れた広場に、ビールの泡の音が響く。ぷしゅり、ごくごくごく。黄金色の液体は喉を通り、腹の底へすとんと落ちた。細かいことはどうでも良くなってくる。アルコールの力はやはり偉大だ。

広場の芝生では、学生たちが授業の合間のスキマ時間を思い思いに過ごしている。噴水のはじける音がマイナスイオンを辺りへ撒き散らす。平和でのどかな光景だ。


「昼から飲む酒は最高だな」

「ああ、うまい」秋彦は同意する。「けどお前、授業はいいのかよ。たしか単位ギリギリだっただろう」

「いいよ、そんなもん」

「せっかくの内定が勿体ない」


孝太郎は、誰もが知る外資企業の内定を持っていた。年収はいきなり一千万。もし就職企業に「ランキング」なるものがあるとすれば、間違いなくそのトップに君臨するような企業だ。

そういった企業へ就職するのは、大抵鼻持ちならない連中だ。表面的な言葉を巧みに操り、上滑りに世間を生きるような人種。秋彦とは水と油で、確実にそりが合わないだろう。

けれど、孝太郎だけは違った。まるで嫌味がないのだ。言葉は簡潔、服はシンプル。内定先の自慢をするようなことは決してない。


「どうでもいいよ、そんなもん」


本心から出た言葉なのだろう。孝太郎からすれば内定を取ることくらい朝飯前。きっと、その気になればなんだって出来る。

「羨ましい。一度でいいから、そんなセリフを吐いてみたい」

「シュウカツの話はやめようぜ。もううんざりだ」孝太郎はビール缶をぐいと傾けた。「それより、俺が聞きたいのは弥生ちゃんの話。おまえら別れちゃったのかよ」


弥生、という単語が、秋彦の胸を深くえぐる。少し前まで誰よりも近くにいたのに、今や誰より遠い場所まで離れた存在。三年分の思い出が、まだ乾ききらない傷口から洪水のように溢れ出してくる。


「結構お似合いだと思ってたんだけどな」

「向こうはそう思わなかったみたいだ」

「そっか」


あまり話したくない、という秋彦の気持ちを察したのだろう。孝太郎はさっさと話題を変えた。

「俺さ、卒業したらアメリカに行こうと思ってる」

「仕事は?」

「内定は辞退しようと思っているんだ」

「マジで?」

「マジで」孝太郎は首を傾ける、「なんか働きたくないなあと思って。働き始めたら、こうやってのんびりすることも出来なくなるだろう。そうまでして働くのって、なんだか時間の無駄だ」

「そりゃそうだけど」

「あくせく働いて、雀の涙みたいな給料をもらって、死ぬまで働いて。社畜っていうのかな。考えたらなんだか空しくなってね」

「けど、どうやって生きてくつもりさ」

「それは考え中。とりあえずアメリカに逃げようかなって思って」

「アメリカ行って何するの?」

「行ってから考える」

「なんだよ、それ」


そう言ってビールの缶を傾けた。秋の高い空が目に入る。


綺麗だ、と思うより前に、秋彦は弥生のことを思い出してしまった。彼女と付き合い出した日も、確か綺麗な空が広がっていた。似たような空を見ていると、思い出が次から次に溢れ出る。

最近は何をしていてもそうだ。見るもの聴くもの全てが弥生につながって、秋彦を苦しめる。三年間も付き合ったのだから当然だ。青春の三年間の思い出は深く、広い。あらゆるものが弥生の存在を連想させた。

それは孝太郎とて例外ではない。むしろ、孝太郎はその筆頭だ。
それはなぜか?


それは、孝太郎とは過去に弥生を争った仲だからだ、


「ビール、おかわりする?」

「ありがとう」

秋彦は差し出された缶を受け取った。ぷしゅりと開け、一気に液体を流し込む。たぶん、いまを逃せば一生後悔するだろう。


「あのときのことだけどさ」


声が裏返ってしまった。孝太郎は首をかしげ、秋彦の方を見た。後戻りは出来ない。


「三年前のあのときのこと。弥生のこと。あれだけど」


そこまで続けて、そういえば自分は何を言いたかったのかな、とセリフに詰まった。


ごめんなさい?


いや、違う。


あの時秋彦は、自らの意志で弥生を奪い取ったのだ。孝太郎も弥生のことを好いているのを知っていて、それを出し抜く形で弥生と付き合ったのだ。それを今更謝ったところで、何になるというのだろう? エゴだ。それは、秋彦のエゴだ。あまりに自分勝手で、あまりに都合が良すぎる。孝太郎からすれば、いい迷惑だ。


しかし、とも心の中で考える。


だからといって、何も言わずにいて良いものか?


孝太郎は、自分が弥生を好きなことを明かさずにいてくれた。恨みごとをこぼすどころか、秋彦と弥生の関係を喜んでくれた。応援してくれた。それに対し、秋彦はどうか? このまま知らぬふりを貫いて良いものだろうか? このまま卒業し、離れ離れになって良いものだろうか?


そんな秋彦の葛藤を見透かしたのだろう。

孝太郎はそっと頬を緩めると、静かに言った。

「まだ気にしているのか」

「そんな」

「もう、いいんだ」


孝太郎は笑った。風が吹き、黄色の銀杏が足元を流れていく。噴水はしぶきを立て続ける。遠くでは、吹奏楽の練習音が鳴り響いていた。

言わない方がいいことだってあるだろう。

いつかどこかで、孝太郎が言っていた。前後の文脈は思い出せない。ただ、その言葉はネガのように秋彦の心に焼き付いていて、頭の中へふと浮かんできた。


「そういえば」孝太郎はポン、と言葉を空中に投げかける。「あの時、CDを貸し借りしていたのを覚えているか?」

「CD?」

「ビートルズのCDだよ。俺はサージェント・ペッパーズを借りて、アキはアビイ・ロードを借りて。入学直後に、同じ趣味を持つヤツがいて嬉しかった」

「そういえば」


ビートルズ好きだということで盛り上がり、CDを交換するような形で、お互いに貸し借りをしたのだ。これは名盤だからぜひ家でゆっくり聞いてくれ、と。

だが、その後すぐ秋彦と弥生が付き合い出し、孝太郎とはしばらく疎遠になってしまった。その後、CDを貸し借りした事実は記憶の彼方へ埋もれ、互いのCDは元の持ち主へと帰らぬまま、三年以上が経っている。

「すっかり忘れていた」

「あれさ、今度返すよ」

「今度って?」


いつだって構わない。どうせ三年以上も忘れていたのだ。この先五年でも、十年でも。何年先でも差支えはない。孝太郎に持っていてもらえるなら、このまま預けていたって構わない。

孝太郎は「あれはそうだなあ」と首を傾け、斜め上の空を見る。何かを思案するときの孝太郎の癖だ。


「だいたい二十五年後くらい、かな」

「二十五年後?」

「そう、未来の世界で、未来のアキに返すよ。その頃には、アキにも子供がいるかもしれないね」


フラれたばかりの秋彦にとって、二十年後の未来、それも子供がいる未来はかすむほど遠い話だった。遠くて、手が届かない。絶望的な気持ちにすらなる。この先の自分に、「昔は色々あったねえ」と目を細め笑える未来は、果たしてやって来るのだろうか。

孝太郎が目の前の景色を見つめたまま言った。


「卒業しても、また会おうな」


反応に困り、秋彦は笑ってごまかす。「なんだよ急に」

「いや、真面目にさ。環境が変わるとなかなか会わなくなるだろう。小学校、中学校、高校のクラスメイト。あいつらがどこで何をしているのか、俺はほとんど知らない」

それは孝太郎がSNSをやっていないからだ。普通は友達同士SNSで繋がっているものだし、近況報告をし合っているものだ。地元を離れたって情報は入ってくる。小さな端末を通じ、いつでもどこでも。

そんな秋彦の指摘にも、孝太郎はどこ吹く風だった。ああいうのは性に合わないから、と笑い飛ばしてしまう。

「なあ、アキ」孝太郎は突然真顔になって言った。「卒業しても、また会おう。本当に、約束だ」

「孝太郎はアメリカだろう?」

「来ればいいじゃないか、アメリカ。飛行機で半日、その気になればすぐだよ。世界は狭い」

「就職出来たらな」秋彦は手元のビールを飲み干した。「このままだと、無事卒業出来るかも怪しい」

「大丈夫だよ、お前は。アキはきっと大丈夫」


孝太郎は空き缶をくしゃっと握りつぶすと、それをそのままポンと投げた。空き缶は小気味よい音を立て、ごみ箱の中へ落ちていく。ナイス、シュート。


「じゃあ、アメリカで」


孝太郎はベンチを立つと、そのままどこかへ消えていった。



***



だが結局、孝太郎がアメリカへ渡ることはなかった。

なぜなら卒業を控えた暖かな春、風邪をこじらせた孝太郎は、秋彦を一人残し、アメリカよりもずっと遠い場所、つまりは天国へと旅立ってしまったからだ。

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