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03. きっとよくなる② (Getting Better)


 次の週もナツヒコは授業に出た。単位を落としても構わない講義ではあるが、きっかり五分前に着席し、最後まで授業を受講した。もちろん話なんて聞いていない。視線だけをきょろきょろ動かして、視界の端で彼女の影を探していた。
 彼女の姿を捉えたのは、講義も終盤に差し掛かってからのことだった。講堂の後ろの扉が開いたかと思うと、彼女はそそくさと空いている席へ腰を下ろしていた。
 視線が合ったかもしれないが、判然としない。ナツヒコはすぐに黒板の方へ向き直ると、授業に集中しているそぶりを見せた。そして、授業が終わると、素知らぬ顔で生協で缶コーヒーを買った。その後向かうのは、あの時の図書館前のベンチだ。
「やあ」と彼女が声を掛けてくる。
「ああ」とナツヒコは気の抜けたような返事をする。当然内心ドキドキで、心臓は胸の内側を勢いよく跳ね回っている。
「テンション低いなあ」
「普通だよ」
 彼女の名はサツキといった。
「五月に生まれたからサツキ。結構気に入ってるの」
「あ、自分も」ナツヒコは嬉しくなって声を上げてしまう。「夏に生まれたからナツヒコ」
「お互いわかりやすい親ね」
「サークルは?」
「やっていない」サツキは軽く舌を出す。「なんとなく迷っていたら、そのまま機会を逃しちゃって」
「同じく」
「ナツヒコ君も無所属か」
「無所属も無所属。すぐ家に帰る」
「GHQだね」
「なに、それ」
「Go Home Quicklyの略。さっさと家に帰る、帰宅部のこと。リーダーはマッカーサー」
「他にメンバーは?」
「わからない。みんな、さっさと家に帰っちゃうから」
「なんだよ、それ」
「GHQは秘密結社だからね。日本の戦後が終わっても、怠惰な大学生の間で脈々と受け継がれている」
 ジーエイチキュー。ナツヒコは口の中で言葉の感触を確かめてみる。悪くはない。サツキと同じ秘密を共有できるのは、悪くはない感覚だった。
 次の週も、その次の週もサツキとの時間は続いた。彼女は授業へ遅れてくることも多かったが、欠席することはなかった。彼女が座る席は、教室隅の最後列と大体決まっていた。ナツヒコはあえて近くには座らずに、彼女の姿がぎりぎり視界に入る位置に席を取るようにした。
 三限と、その後に続くスキマ時間。
 週に一度のひとときは、ナツヒコの生活に潤い、刺激、希望、その他諸々の彩りを与えた。どんなに嫌なことがあっても、この時間がある限り生きていける気がした。
 だから、たまに授業が休講になると気分が落ち込んだし、いつか来る夏学期の終わりのことを考えると、ほとんど絶望的な気持ちに陥った。彼女と会えなくなる? 同じ大学へ通っていて、まさかそんなことは!
 しかし、秘密のスキマ時間を除いて、彼女を学内で見かけることは決してなかった。お互いGHQに属している宿命だろうか。いかんせん大学に滞在する時間が短いので、どうしても接点は限られてしまう。
 そして、ついに講義の最終日。
テストが終われば講義は全て終了だ。あとには二か月半にも及ぶ長い長い夏休みが待っている。そして、新学期になれば時間割はがらりと変わる。たぶん、彼女と講義がかぶることは二度とない。なんとなくそんな風に感じていた。
「テスト、どうだった?」
 サツキはナツヒコを覗き込むように話しかけてきた。
彼女は、いつも通りの彼女だ。寂しくないのだろうか。なんとも思っていないのだろうか。人の気も知らずに、と苛立ちさえ感じてしまう。なにより、傷つく。
「テスト出来なかったの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、なに?」
 大きな瞳でナツヒコのことを見つめてくる。
彼女はこちらの気持ちに気づいていないのだろうか。デート、というのとは少し違うかもしれない。けれど、毎週決まった時間、決まった場所で会ってきたのだ。たしかにナツヒコはGHQ所属の暇人であったが、好きでもない人間と毎週会うほど酔狂でもない。それなら、家で一人、ドラマの続きでも見ていた方が百倍マシだ。
 今度ご飯でも食べに行かないか。連絡先を教えて欲しい。
 たったそれだけ、たった一言。
 だが、たったそれだけが果てしなく遠い。遠くて、困難だ。ナツヒコは自分の意気地のなさを情けなく思ったが、どうしてもあと一歩が踏み出せない。前日の夜、試験勉強そっちのけでサツキを誘う練習をしたのに、いざ本人を目の前にすると、練習内容など全て真っ白に消えてしまう。焦りが、頭の中を忙しく行き交った。
「言いたいことがあるなら、言って欲しい」
サツキがぐいとせまってくる。
 とっさに、唇の間から言葉が滑り落ちてくる。
「GHQ、一緒にやりません?」
 サツキは「へ」とすっとんきょうな声を出し、一瞬固まった。そして、少し遅れて、「家で遊ぼうってこと?」と言った。
「いや、家とか、そういうことじゃなくて」ナツヒコはぶんぶん首を振る。「お互いサークルやってないんだし、空いた時間とかどっかで会えればなと思って。イヤなら仕方ないけど」
「イヤだ」サツキはいたずらっぽく笑う。「なんて言うわけないじゃん」
「てことは」
「いいよ、放課後どっかで遊ぼうか」
 ナツヒコの頭の中でころん、と音がした。人生が好転した音だ。浪人して良かった。第一志望に落ちて良かった。滑り止め万歳。浪人万歳。万事塞翁が馬!
「今日の夕方、渋谷でご飯でも食べる?」
 サツキの言葉に、夢見心地で頷いた。
 世界は明るい、素晴らしい、希望に満ちている。ふわふわとした気持ちに包まれて、ナツヒコはそんな風に考えた。

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