01. あいつがいれば(ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ)
「いまから正門で会えませんか?」
午後の授業の後のことだ。携帯電話が振動し、メールの受信を知らせた。
メールの送り主は不明。アドレス帳には登録されていない。業者からの迷惑メールか、怪しい宗教団体の勧誘か。いずれにせよロクなものではないだろう。
孝太郎はため息を吐き、ぱかりと携帯を閉じた。
最近うんざりすることばかりだ。
受験戦争をくぐり抜け、田舎から上京して大学へ来たはずなのに、そこに広がっていたのは動物園のような光景だった。ロクに授業に出る者はいないし、いたとしても、出席数稼ぎの者ばかり。後ろで寝るか、雑談に興じるか、はたまた携帯をいじり続けているか。授業なんてあってないようなものだった。
いや、違う。
そこまで考えて、孝太郎はすかさず首を振った。憂鬱の原因は、そこではない。自分自身の気持ちを誤魔化してはいけない。孝太郎を不安にさせ、参らせているのは、秋彦と弥生の存在、いわゆる三角関係というやつだ。
秋彦は大学のクラスメイトの中では、最も気の合う存在だった。孝太郎とは正反対の性質、穏やかで間の抜けたところを持つ男だったが、一緒に過ごしていて心地が良かった。音楽の趣味も同じで、お互いCDのアルバムを貸し合ったりなんかもした。出会って最初の会話を終えた後、おそらくこいつとの関係は一生続くのだろう。直感がそう知らせた。
だから余計に、弥生の存在が頭を悩ませた。孝太郎は弥生に激しく心を惹かれていて、それは秋彦も同様だったからだ。お互い口には出さないが、どちらも互いの気持ちをきっと知っている。
入学直後のクラスメイトということで、いまは弥生と三人で行動を共にすることも多い。入学直後の文化祭がきっかけで、三人で同じ時間を共有することが増えた。
だが、放っておけば弥生は他の男と付き合い出すに違いない。サークルだのバイトだの、課外活動が本格化すれば、秋彦に限らず、弥生に言い寄る男は星の数ほどいるだろう。
ならば、その前に自分が。
そこまで考えたところで、いつも秋彦の存在が頭にちらつき、孝太郎を悩ませた。おそらく秋彦も同じ気持ちなのだろう。お互い相手の気持ちがわかっている分、話がややこしい。
わざわざ大学までやって来て、自分は何をやっている?
孝太郎がそんな風に自問しながら歩いていると、大抵サークルか宗教団体の勧誘が声を掛けてくるので、おちおち気を抜く暇もなかった。そんな調子で、幸太郎は、自分のいる場所を徐々に見失いかけていた。
こんな時、加瀬がいてくれればな。
孝太郎の頭に、旧友の顔がふとよぎる。加瀬に話を聞いてもらいたい。加瀬に会いたい。何度そう思ったことだろう。だが、それはもう叶わぬ願いなのだ。
加瀬を初めて知ったのは、高校三年の夏のことだ。部活が終わり、受験勉強も本格化したところで知り合った。志望校が同じで、なんとなく会話をするようになったのだ。孝太郎の高校に、同じ大学を目指す者は他におらず、そもそも、上京を志向する同級生自体、周りには少なかった。
加瀬とはクラスも部活も、人生に対する考え方も、何もかもが違った。加瀬との共通点を探す方が難しいくらいだった。だが、その距離感がちょうど良くて、気がつけば毎日会話をする仲になっていた。無二の親友、という表現は決して大げさではない。お互い欠けているものをぴたりと補完し合うような関係。妙に居心地が良くて、新しい発見があった。
夏が過ぎ、秋が来て冬になり受験、そして卒業。
卒業し、上京しても加瀬との仲は続くだろうと思っていた。むしろそこからが本番だろうと思っていた。互いの下宿先を行き来して、ああでもないこうでもないと夜通し語り合うものだと思っていた。
だから、加瀬が大学に落ち、その後音信不通になろうとは、さすがの孝太郎にも予測出来なかった。それまで続いていた道がぷっつりと途切れてしまったのだ。現れたのも突然であれば、切れる時もあっという間だった。
加瀬が大学に落ちたという報せは担任から聞いた。合格報告をしに行った際、「合格おめでとう、けれど加瀬は…」と。世界が足元から崩れ去った気分だった。
しばらくの間、加瀬と連絡を取るのは控えた。残念だったな、気を落とすな先はまだ長い、なあに、何も大学が全てじゃない大学でまたやり直せばいい、なんてことは言えるはずもない。
大学に受かった人間が落ちた人間にかける言葉を、孝太郎は持ち合わせていなかった。
それで、春休みの間は加瀬との接触を一切絶った。たぶん向こうも孝太郎と会うことを望んでいない。他人の気持ちに疎い孝太郎にも、そのくらいのことは理解できた。
そして、そろそろほとぼりも醒めただろう。そう考えた四月、孝太郎が加瀬に電話をすると、既に番号は失われていた。
おかけになった電話番号は現在使われておりません、番号をお確かめの上うんたらかんたらツーツーツー。以上。
ショックだった。
電話もメールもつながらない。孝太郎は加瀬の人生から意図的に「切られた」のだ。お前とはもう会いたくない、と行動で示されたのだ。全身脱力し、力が入らなかった。
大学での人間関係に悩んでも、ほかに相談出来る相手もいない。孝太郎はいつだって尊敬され、相談される対象であったのだ。気軽に付き合える友人など、加瀬くらいのものだった。秋彦なら話を聞いてくれそうな気もしたが、今回ばかりはそうもいかない。いかんせん、彼こそが相談内容の当事者そのものなのだ。
大切な友人を失い、新たに出来た友人とは三角関係。とことんついていない。それとも、問題は自分自身にあるのだろうか。わからない。周りから「賢い」と言われ続け育った孝太郎も、自分自身のこととなると、とんとわからなくなるのだった。
その時、孝太郎の行く手を阻む影があった。
「道に迷っていませんか?」
年上とおぼしき男女二人組。宗教の勧誘だ。
ぎりぎり学生といった年齢だろうか。ひょっとしたら、留年に留年を重ねた強者かもしれない。「迷っているのはあなたたちの方ではないですか」とつい声を掛けたくもなる。
だが、もちろんそんなことはしない。
「急いでいるので」とだけ言って、その場を立ち去ろうとした。
すると二人組は孝太郎の横を並走しながら、「歩きながらでも大丈夫」「人生目的が大切です」「勉強会へ出ませんか」と息の合ったデュオのように、薄っぺらい言葉を次から次へ吐き出した。それでも無視を続けると、「連絡先だけ」「参加費無料」「登録無料」「迷惑はかけません」とさらに食い下がってくる。
そして最後には「後悔します」「地獄へ堕ちるでしょう」と呪詛のような言葉だけを残し、どこかへ立ち去った。
孝太郎はため息を吐く。入学以来の一か月、こんなことばかりだ。誤って連絡先を教えてしまった団体からは、いまだに着信が鳴りやまない。いっそのこと、連絡先を変えてしまおうか。
そんな風に考えたそばから、携帯電話は新たなメールを受信する。
「授業中でしょうか。正門で待ち合わせ出来ませんか」
先ほどのメールだ。なんとしつこい勧誘か。いらいらが募り、思わず相手を罵倒してしまう。
「どなたか知りませんが、どこでわたしのアドレスを知ったのでしょう? 迷惑なので連絡先を消してください」
「そういうわけにはいきません。あと十分ほどで着くので、ぜひお話しましょう」
「お断りします」
「そんなこと言わず、少しでも」
「どちら様ですか」
「それは言えません」
「ふざけているなら帰ります」
「マジメです」
「では団体名を名乗ってください」
「お会いしてから名乗ります」
「帰りますね」
「あと五分。正門まで来てください」
ほとんどチャットと化したメールの往還。誰でもいいから話をしたい。孝太郎は途中から、そんな自分の気持ちに気づき始めていた。案外、宗教にのめり込む時というのは、こんなものなのかもしれない。あとは野となれ山となれ。孝太郎は、メールの相手と会う気持ちを固めていた。足は正門前へと向かう。
三分前、
二分前、
一分前、
「久しぶりだね」
振り返り、相手の顔を見る。後ろから声を掛けられた驚きと、待っていた意外な相手。叫ばずにはいられなかった。
「加瀬」
「どうだい、大学は」
「どうだい、っておまえ。いままでどこに」
「どこって、知っての通り地元に残って受験勉強。浪人生ってやつ」
「連絡がつかなかったのは」
「そりゃあまあ、お前に会いたくなかったからさ。一緒に大学目指したのに、お前だけ受かって俺は不合格。お前の顔を見るたび嫌になりそうだったから、もう会うのはよそうって決めたんだ」
そうか、と孝太郎は視線を落とした。悲しいが、理解できない話ではない。
しかし加瀬は「けどさ」と言葉を続ける。「やっぱりお前しかいないと思ってさ」
「どういうことだ」
「それ、言わせる?」加瀬は笑った。「つまり、いろんな話を出来る奴が、ってこと。悩み事とか、そういうの。浪人生もさ、これで結構いろいろあるんだぜ」
「恋愛とか?」
「気になる?」
「気にならない」
「まあそう言わずに」加瀬は孝太郎の肩を叩いた。「今日はおまえんちに泊めてくれよ。新幹線のチケット代、貯金全部使っちまったんだ」
胸の内から熱い気持ちが湧いてくる。油断すると、目から涙がこぼれそうだ。
「勉強、いいのかよ」
「一日くらい大丈夫」
「また落ちるぞ」
「このままじゃ、勉強に集中できないからね」
実は俺も、と言いかけたところで、言葉に詰まった。どうやら涙を流しているらしい。泣くなんて、何年ぶりのことだろう。一度泣き始めると、もう止まらなかった。
加瀬はその様子をきょとんと眺めてから、笑って言った。
「続きは、家で」
加瀬に背中を叩かれながら、いつもは一人の帰り道を、二人並んで歩いた。たぶん大丈夫、俺は大丈夫。こいつさえいれば、なんとか大丈夫。孝太郎は、心の内で何度もうなずいた。
入学してからの出来事。
浪人してからの出来事。
家に着くのを待ちきれず、胸の内に積もった話を、二人は一つずつ吐き出した。太陽が傾き、オレンジに染まりかけた通学路も、いつもよりほんの少しだけ温かい。
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