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「記憶もまた現在の体験である。」

こんな言葉に出会う。

『記憶もまだ現在の体験である。』

そうなんですよ。

クライアントの多くは、勉強家だったりする。
カウンセリングに救いを求めたりするくらいだから、予習もしっかりしていたりする。

過去にこんなことがあって、こんな風に虐げられてきた。などなど精神分析的に解釈を元に物語られる。
ただ、この話を語る間は頭でっかちになってるとき。

あまり役には立たない。
それより語ろうとするその姿勢の方が気にかかる。


「お父さんがいなきゃ、今とは違った?」

そこで静かな間が流れる。

自分のお話から離れ、私自身の感じている今に向かっている。

「お父さんのせいにしてたかも。
 今も、人のせいにしようとしてた。
 私は、(それを)したいんだ!
 失敗が怖いけど、やりたいんだ!」

記憶は、実は今の私が集めてきている。
選りすぐってお話にしている。
でも、それは今の姿勢を形にしているんです。

進行中に生きてるときって、お話にはならない。

ベクトルだけが感じられている。
そして、そこにエネルギーがある。


お話の筋も見えない現在の自分の中にだけ、生きる力を生み出してくるような気がする。ウィルバーは自分の中にあるそれを「体験」と表現されたのかもしれない。

木が「いる」「ある」と同じでどちらかと言うことは出来ないが、得てして「お話」の方に偏ってしまうのは、ある意味、無駄なのかも。

「麒麟がくる」の中で、縁側での語りのシーンがよくあった。私の感じている今を見つめている時の現れのように僕には感じられていた。


フロイトは過去の体験が今の私を縛っているような説明をしたけれども、彼が実際にしていたのは、自由連想法。見えないところに位置し、邪魔をしないようにしていた。クライアントはただ、思いつくまま浮かんで来たことに心を向けていた。今なのだ。

お話は後から、振り返って作られただけ。
お話が先にあったわけではないし、お話がエネルギーをくれたわけではないように思う。

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