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Swinging Chandelier:12-孟買青玉

 鍵を閉める。外の廊下を歩いて階段を降りる。駅まで十分と少し。肩にかけた鞄はうちの会社に登録してくれている革職人のセミオーダー品。オフィス用のモデルは軽めでパソコンも入るし、何よりデザインが可愛い。ハイウエストのワイドパンツに丈の短い上着を合わせて、ショートブーツのヒールが鳴る。
 住宅街の庭からのぞく鉢植えのビオラを横目に歩き、繁華街を貫く大通りに出ると街路樹の花水木の葉がまばらに色づいていた。駅に向かう人のせわしい塊に混じりながら歩き続ければわたしも勝手に足早になる。改札をくぐってプラットフォームから箱詰めになって揺れて、降りたら少し歩いて会社に着く。
 月曜日は後輩のレジュメの手伝いと直し。火曜日は月一の定例会議の日。水曜日はワークショップ講師をやるクリエイターの工房に訪問をして、木曜日は休み。金曜日と土曜日はイベント設営と当日スタッフ。日曜に半休入れて、次の月曜はまた休んで。
 そうして曜日をするするたどって。少し朝夕の影がまた長くなっても玄関から階段を降りてイヤホンを耳に突っ込んで、通勤電車を上って下って行って帰って。
 昼休みをコンビニのサンドイッチやおにぎりで済ませる日もあれば、さゆりさんと近くに食べに行く日もある。
「海老とアボカド混ぜたら大体女子ウケいいと思ってません?」
「でもおいしいのは事実でしょ?」
「まあそうですけどー」
 最近できたらしいオープンテラスのあるカフェダイニング。「出勤途中に時に見つけたからお昼行かない?」
 とさゆりさんが誘ってくれた。日替わりレディースランチ1,380円の中身は、海老とアボカドをオーロラソースで絡めて薄切りの酸っぱい玉ねぎと合わせたガレット。同じお皿に彩りよくキャロットラペとフリルレタスも並んで、それから小さいマグに入ったスープと食後のドリンクに小さめのデザート。メニューの脇に括弧をつけて(男性もお召し上がりいただけます)とわざわざ書いてあって、なにがレディースなのかはよく分からない。
「あー。戻ったら村松が出してきた書類、一緒に直さなきゃ。あの人内容はいいけど誤字脱字がめちゃ多いんだ」
「勢いで書くタイプだからねあれは。でも参加型のイベントで面白い企画いれてくれるし、仕事熱心よね」
「そうなんですけど。もう少し落ち着いて書いてくれたらなって。読みやすい方が企画も通りやすいし。あとあいつアッパーの日とダウナー日の差が激しいから」
 午後の段取りと愚痴よりもさらに軽いわたしのぼやきを聞いているさゆりさんの、睫エクが烏揚羽カラスアゲハの脚のように繊細でとても似合っているまぶた。
「そこは上條の先輩としての腕の見せどころ。あんたはもう人に教えてもいい頃合いだし、教える立場からしか学べないこともあるんだから」
 そう言ってさゆりさんはホットチョコレートを飲みながらゆったりと微笑む。シアーなバーガンディーの口紅が似合うさゆりさん。お姉ちゃんみたいな顔をするさゆりさん。
「はーい」
 わたしはまた、少しむくれたような妹の顔で返事をする。
 窓越しのウッドデッキに雀が数羽、客がこぼしたランチをついばんで、小さな小競り合いをしては飛び去る。正午まひるのひかりは街を歩く人の影をそろそろと伸ばす。
 月曜日に一時間残業して、火曜日は帰りにユキさんの店で「疲れた疲れた」と笑いながらまたペルノを飲んで、水曜の仕事は少し集中不足でコーヒーをたくさん飲んで、そのせいでトイレが近くてさゆりさんと村松が笑って、木曜日にアトリエ関連の仕事で大貫や御子柴さんと急遽打ち合わせがあって、似ているものに違うものが少しずつ混ざる日々を消化していく。休みの日に気になっていたバンドのライブに行ったら思っていた以上に気持ちよくて、ハコで頭を振りすぎてピアスを片方失くして帰ってきたり、仕事が少し立て込んで予定が小さくズレたり。
 疲れすぎない程度に歩いたり走ったりしながら、けれど立ち止まる時は少し慎重に、次に足を踏み出すタイミングが見えなくならないようにしておかないと。正気に戻ったような、まともになってしまったような瞬間は、向こうから勝手にやってくる。ズレた予定のせいで勝手に躯が利かなくなる時も、また。

 その日だけやけに気温が高くて、帰りも上着は脱いでいた。
 食欲がなく、コンビニで買った梅干しのおにぎりで夕食を済ませて、とりあえず風呂に浸かって、いつもより高い気温のせいか汗の引きが悪く、その割にうっすらと寒気があるような心地だった。
 夜。レースカーテンだけを引いて窓は開けたまま、その代わり宵の口から部屋を暗くしていた。
 透明の硝子洋盃ガラスコップを出してきて冷凍庫の氷をざらざらと三分の一。それがひたひたになる位のジンを注ぎ、同じ量の炭酸水を入れる。
 南の海の色をした瓶に入った酒。杜松ねずの実でにおいをつけた酒。食欲もないくせに、瓶が綺麗でつい手に取って買って帰ってきてしまった。
 寝室のローテーブルに置かれたジンの瓶と硝子洋盃、炭酸水のペットボトル。杜松の実の匂いが炭酸の泡にしゅわしゅわと混ざって立ちあがっている。
 オイルライターを擦る音がして煙草に火が点く。暗がりに、滲んだ赤い点ができて煙る。
 ベランダから続く外。夜の暗さは景色をひたりと水没させる。くぐもった街の音はあけた窓の縁を波打ち際にして、ゆるやかにやって来てはまた引いていく。薄闇が半透明の青いフィルターをかけた部屋の中。硝子洋盃から飲み干す。
 かちゃり。氷が溶けて硝子洋盃にあたる。
 南の海色の瓶を傾けてジンを注ぐ。今度は炭酸水を入れずに飲む。咽喉のどと胸が焼けるような感覚が瞬間的に走る。それを短く何度も続ける。
 いつもより少し湿った風は、それでももう冷たくなっている。窓を閉めるために立ちあがって酔いに覚束なくなる脚は、水の中を歩く感覚に似ている。
 レースカーテンの裾が水母の襞のようにたわみ、裸足の甲をなでた。
 遮光カーテンを引いてベッドサイドのランプをつければ薄闇に揺蕩たゆたっていた景色が全て海へと沈み、ローテーブルの周りだけがぽっかりと取り残されたように照らされる。
 夜に放り出された潜水艇。その中でジンを飲み続ける。炭酸の泡は海面まで浮上できただろうか。
 咽喉に酒を流し込むほどに、この潜水艇は深海の奥へと沈んでいく。南の海色は藍色や群青、濃紺を経て、やがて黒が塗り潰す場所になる。ちかちかと、まぶたの裏に光る小さなものら、あれは微細なプランクトンだろうか。
 酩酊は耳たぶの先端やまなじりを熱くさせて、けれど体の芯はいずれ本格的に訪れる寒気を知っている。硝子洋盃に継ぎ足しながら、杜松の実の酒を躯に流し込み続ける。
 そのうち水圧に耐えられなくなって、窓が割れて冷たい海水がなだれこんで、いやその前にこの躯が押し潰されて。どこまでも暗く耳が詰まる静けさの、アルコールの深海におぼれられる、はず。

 下腹部に冷たくおもりを打ち込まれたような痛みと咽喉の渇きで目を覚ます。まぶたが浮腫むくんで、頭は水没したような感覚だった。
 億劫に首を動かせば床の上に転がった空の洋盃を見つける。時間を見ようとして、枕元の充電コードにスマホがささっていないことに気づき、そのまま壁掛けの時計のほうを見たら針は午後二時を回る頃合いだった。カーテンの隙間から差し込む光はすでに傾きはじめている。昨夜いつベッドに入ったのかは思い出せなかった。
 起き上がろうとしてべたつくような違和感を覚え、掛け布団を雑にめくる。五百円玉硬貨を二つ重ね気味に並べたように、敷布シーツに赤く染みがついていた。
 ああクソ。二日目だった。
 もちろん着ている寝巻にも下着にもしっかり経血は付着している。立ち上がりざまの目眩に重く怠い躯と、下腹部に走る痛みを引きずりながら、汚れた箇所を洗面台で手洗いして全てを洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて、太腿にべたついていた血も洗い流した。
 着替えてカーテンを開けた。キッチンで冷蔵庫から炭酸水を漁り、痛み止めとビタミン剤と胃薬をまとめて流し込む。むしろ躯には悪そうだけれど、生理痛に二日酔いに肌荒れ、直近の嫌なことを解消する方が気分は楽だ。
 寝室とダイニングキッチンは昼間の光に満たされて、潜水艇も深海も見えない。きら、と光って見えたのは南の海色の瓶。全て飲み干したわけではなかったようで少し安心するが、中身は半分以下になっていた。いくら休日前だったとはいえ酔い潰れるまで飲むのはなんとなく無様だ。誰が見ているわけではないけれど。
 三十パーセントほどの充電のままダイニングテーブルに置き去りにされていたスマホを見つける。
「昨日具合悪そうだったけど風邪でも引いた?」
 さゆりさんからメッセージが入っていた。
「すいません生理でふらふらしちゃってて」
 揺れる洗濯機の音、画面に表示される文字。飲んでいた夜より音や色が多いはずなのに、ざわめきは少ない。
「あれ。ピル飲んでるって言ってなかった?大丈夫?」
「それが勤務忙しくて婦人科行けなくて、あれ一回逃しちゃうと次の生理終わるまで新しいの飲めないんですよー」
 ぱたぱたと、生活音にスマホをタップする音が足される。
「あらら、じゃあ一回分は普通の生理痛きちゃうんだ。重い人は大変ね。まあとにかくお大事に。あんまりつらいなら明日有給にできるからね?」
 普通の生理痛ってなんだよと少し笑いながら、確かにピルを飲んでいるのは生理が重いからだけれど、どちらかといえば身軽にくだらない遊びをするための自己防衛で、そしてわたしはその自己防衛の部分に対して後ろめたさをいだいている。いだく必要のない後ろめたさだということはもちろんわかっていても、なお。
「痛み止め飲んで寝てれば大丈夫だと思います。ありがとうございます」
 うさちゃんがお辞儀をしているスタンプで会話を終わらせる。さゆりさんは上司だけど仕事じゃない時も気遣って連絡をしてくれる。というより、そういうことができるから上司なのかもしれないけれど。
「さゆりさんって、優しいよね」
 ぽそり、画面に向かってつぶやいていた。また少し静かになって、その分ざわめきが戻る。洗濯機の音も午後の室内も、さっきから特に変わっていないのに。
 煙草に火をつける。深く吸い込めば空腹が、軽い吐き気に変わる。
 午後はすぐに、夕暮れになる。
「……っつ、ぅ」
 下腹部にまた痛みが走り、ぬるり、滲み落ちたのがわかる。飲むのが遅かった痛み止めは中々効いてきてくれず、首筋に冷汗が浮く。十代の頃から付き合ってきたこの痛みは、慣れきったはずなのに毎回わたしを惨めな気持ちにさせてくれる。この躯一つ、意識的な制御が行き届くことはままならない。そういう構造だと知りながら、いや知るほどに苛立って昨日は飲めるだけ酒を飲んだ、多分。
 痛みに、呻くような溜息を漏らしてわたしは、片手で瓶をつかむと残りのジンを全て流しに捨てた。逆さまになった南の海色からこぼれる杜松の実の匂いがキッチンに立つ。
 西陽が裸足の甲に当たっている。ぼんやりと他人事のように、いい加減何か食べないとなと思った。


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