見出し画像

赤ちゃんの発達プロセスと踊り

ふと見かけたポスト。赤ちゃんが一年くらいかけてだんだんと成長していくプロセスを追いかけてみたと言う体験について呟いておられるのを見て、あれやこれやと書きたくなりました。

まずは見たのはこのポスト↓

そしてこちらに続きます。

そうなんだよね。赤ちゃんはどんなに不可能と思われても、興味と衝動に身を委ねて、身を捩りながら、全身全霊、身体を引き摺り、顔を向け、手を伸ばし、最後には口に入れたり、舐め回したりして、味わい尽くそうとするんだよ。そしてじゅうぶんに満たされたら、別の興味に移っていく。

そうしていくうちに筋肉が発達し、脳も神経もみるみる発達していく。ものすごい電気パルスが脳内を駆け巡って、必要な組織が発達して、三次元で生きていくための準備ができていく。

原初舞踏に出会って、インパクトがあったのは床稽古を体験したことだったんだけど、その赤ちゃんが発達していくことの原型が床稽古の中に全部盛り込まれていることが僕には衝撃だったんだよね。それが原初舞踏に最初に出会った日のことだった。

ある意味、生まれなおし、生き直し、やり直しを通して、かつて滞った場所で体が動かなくなることをも経験することで、人間としてもう一度「立つ」ことを目指すわけだ。その過程で神経の繋ぎ直しだとか、トラウマ的なものの解消だとか、いろんなことが起こりうるということだね。

それを体験して、原初ということの意味がよくわかったし、それこそ、それまでやってきたこと、踊り、キネシオロジー、田んぼの中を歩くことにも通じる、身体に関する根本的な基本的な要素を全部含んでいたものだったから、即座にこれをやりたいと思ったんだった。そして紆余曲折、今に至ったということになる。

赤ちゃんが興味に向かって進む原動力こそ、生命力と言えるだろうし、それは内側から湧き上がってくる衝動でもあり、やがてその結果としての何らかの形が、その人の人生に現れてくるはずということになる。その形は人によって変わってくるけれど、原理は同じだ。内発から全ては始まってくるわけだから。そこに外部からの矯正が多く入った人ほどに、その後の人生は大変になるのかもしれない。

僕が見た生涯最高の踊りの一つは、長男が生まれてきた瞬間に、全身を思いっきり伸展させながら、全ての指先に力を込めてエネルギーをほとばしらせながら、全身全霊で泣き叫ぶ声を聞いた時だった。それを見た時、すごい踊りを見たと思って放心状態になったんだよね。それが最も忘れられない踊りのひとつとなった。今でもありありとあの瞬間の光景を覚えている。

ついでに、もうひとついまだに忘れられないすごかった踊りをあげるとするならば、22歳の時に見た、バリ島の老人の面をつけた、ある舞踏家の踊りだった。あれを見てなければ、僕は踊りを始めてなかったと思うし、大学を辞めてなかったかもしれないし、全く違う人生になっていただろうと思っている。

あれはまるで金属バットで頭をぶん殴られたようなショックだったんだよ。なんと言うか、出会ってしまったという感じだった。楽屋に行ってそのことを話すと、「バリに行ってくれば」と言われて、そこから始まってしまったんだった。

まあ、僕にとってはそこに強烈に惹きつけられてしまったわけで、それは赤ちゃんがテーブルの上にある魅力的なおもちゃに向かう姿となんら変わらないと言えるだろう。

全身伸びをして、足をプルプルさせながら、何度倒れてもあきらめずにトライして、そのおもちゃを最後の最後になんとか手に入れると言うようなことをやってきたと言えるのかも知れない。

そのように三次元の空間なかで、身体を自由に動かすことができるように、培い、育んできた脳神経と筋肉骨格、感性というものがあったからこそ、赤ちゃんは人間になれたと言えるわわけだし、そういう意味では人間になるということは、人間型ゲシュタルトを獲得すると言うことも含めて、必要な過程であり、マイルストーンでもあったわけだよね。

だからそれは決して忌避するようなものではなく、むしろその偉業に対しての愛おしさがあってこそ、尊重があってこそ、ようやく先に進むと言うことも可能になるんだろうと思うのだ。

だからこそ、内面の充実を図り、自我を見つめると言うことはとても大事なことになるんだろうと思う。そう言う意味では踊りに取り組むと言うことは悪いことではないかな。全ての要素がその中にはあるからね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?