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着物を脱ぐ

踊りの中で「想起」が起こるということについて、今朝のポストで最上さんが書かれていました。少し長いけどスクリーンショットで引用します。


特に前回の稽古の中では古い絹の着物を使ったということもあり、参加した多くの人がそれぞれに意味のある体験をしたように思います。

思い返せば、4年前の床稽古の時に、母が出てきて、さめざめと泣いたということを覚えていますし、折に触れ、様々な過去に縁のあった人が立ち現れて、その都度ひとつひとつの過去の出会いに向き合うということが、稽古の中での経験としても積み上げられてきたと思います。

今回は羽織った着物が黒い紋のついた着物だったせいか、祖父のイメージが出てきました。そこから連なる先祖代々という意味での仏壇を背負っていたような気持ちになったということも、僕にとって何らかの意味があるからこそ、このタイミングで出てきたことなのだろうと思います。

それらのことが「鎮魂となる」という最上さんの言葉にハッとさせられたところがあって、あらためて「着物を脱ぐ」ということの象徴的な意味ということを考えさせられました。

「着物」は単なる機能としての着るものではないのでしょう。そこにたくさんの人の過去が重なり合って畳み込まれていて、さらには素材的にも織り込まれているからこそ、蚕が桑の葉を喰む音が聞こえてきたりもするのだと思います。それは原初の響きと言いますか、古い古い創造の起源にまで遡りうる記憶なのかもしれません。

「着物」とは伝統であり、歴史であり、たくさんの動物や植物や人間のエッセンスを含み持ったものであるからこそ、実はこれもまた呪物としての着物ということが言えるのだと思いました。

布を引っ張った時に生ずる微かな匂いや、微かな衣擦れの音というものの中に、次元を超えるための秘密があるようにも思います。匂いや音は特に古い記憶のようなものにつながっているのだろうと思いますし、だからこそ、踊りにおける衣装、装束というものには意味があるとも言えるのでしょう。

祖父も父も仕事として呉服を扱っていましたから、僕の子供の頃の記憶としては、大量の反物が並んだ棚の間で遊んだ記憶がたくさん残っています。

巻かれた反物を広げる時に、目眩がするような感じがしたのは、布が展開する時に生じる微かな匂いや、織り込まれた錦糸の煌めきや、布の持つ質感からくる独特の音に影響されて、何やら意識の変容のようなことを経験していたのかもしれません。

だから、着物を稽古の中では扱うことで、僕にとってはたくさんの子供の頃の情景が、想起されてきました。

母が着物や帯の仕立てをしている横で遊んだ記憶とか、父が仕上がった着物をきれいに化粧紙に包み、それを板に乗せて、さらに大きな風呂敷で包んでお客さんのところに届けるイメージとか、いろんなイメージが次々と古い地層から発掘されてまだ湯気が立っているような状態のようにも感じます。

4年前に、この着物を脱ぐという稽古を初めて体験した時に、自分の経験もさることながら、他の方の着物を脱ぐ様子を見た時のインパクトは計り知れないものがあって、いまだに忘れられません。

あれが何だったのか、特に「着物を脱ぐ」ということの中には、脱皮であるとか、羽化であるとかのイメージにもつながりますから、ふと、着物に絡め取られた母の姿を重ねて見ていたのかもしれないと思い至りました。

着物を脱ぐ時の葛藤というものは、それが身体にフィットしていればいるほどに、生皮を剥ぐようなためらいを伴いますし、場合によっては、途中で脱ぐことを諦めてしまうということもあるでしょう。

それらのためらいや、諦めや、途方に暮れる様というものが、人によっては、それぞれの生き様を写すのだと思いますし、それだからこそ、このようなことを稽古でやることの意味があるのだと思います。

それは深い深いところへと降りていく作業でありますから、井戸掘りにも似ていることなのかもしれません。きっと、その方向にこそ宇宙につながる通路があるのでしょう。そう直感するからこそ、こんなに魂が震える経験になるのだと思うのです。

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