手芸と葛藤

夏に向けてストローハットを編み始めた。
どんな形にしようか。何号の針を使おうか。悩みながら編んでは解き、編んでは解く。全くアイデアが浮かばない。そんな日が続いた。

ある時、街を歩いていると、ふとお店に並ぶストローハットが目に入った。参考になるかもしれないと立ち寄ってみると、値札を見て私は驚愕した。「安い…安すぎる」と。

こっちは必死に編んでいるのに、精巧なものがこの値段で買えるのでは、私は一体何のために作っているのだろうか。手芸をする人にとって最も危険な溝に、私はハマってしまった。いつもなら作る過程こそが付加価値なのだと考えるところだが、今回はそんな簡単な理由では到底満足できなかった。

悶々としながらも、私は帰ってまた編み始めた。外で安く買えるのならと、急に「手作り感」を出すことに尽力し始めた。そもそも手作りにさらなる「手作り感」をプラスすることは、矛盾しているのではないか。なんてことも考えたが、それでも私は、機械をギャフンと言わせるにはそれしかないと思った。

「手作り感」を求めた途端、どんどんとアイデアが浮かび上がり、作業は順調に進んだ。機械というライバルの台頭によって、私の頭はフル回転したようだった。さらに、ゾーンに入ると一切の悩みは吹き飛び、ライバルの存在すら忘れていた。

完成に近づいている今、私はやっぱり編んでよかったと思っている。この編みかけの帽子に「手作り感」が出ているのか、正直さっぱりわからない。ただ、すでにこの帽子は機械で作られたそれを遥かに超えている。

終わらないうちにこうして記事を書いているのも、結局のところ編み上げるプロセスに価値を見出しているためだろう。作る途中の矛盾や奮闘の末に、美しいものは生まれるのではないだろうか。

手芸もまた手仕事のうち。私の慕う民藝運動やアーツアンドクラフツ運動の職人たちも、こうした問題に直面したことだろう。手仕事とは、ただ物を作る作業ではなく、人の生活であり、人を成長させる道のりのようなもの。私もあの職人たちのようになれるだろうか。改めて、手芸の奥深さを感じる。

帽子を見ながら、今度は完成させることへの躊躇いが生まれてきた。あぁ、手芸の葛藤に終わりはない。

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