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ビーガンという生き方

「ビーガン」という言葉も、ここ1〜2年で大変有名になりました。しかしながら、言葉とイメージばかりが先行し、正確な理解がどれほど普及しているかは甚だ疑問です。今回は、一冊の書籍、マーク・ホーソーン『ビーガンという生き方』を通し、ビーガンのその実践の姿を紹介します。ビーガン、ビーガニズムの正しい理解の一助となれば幸いです。それは決して「より厳格なベジタリアン」でもなければ、「過激な動物愛護」でもありません。

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ビーガニズムとは何か。日常生活で、あらゆる動物製品の消費を拒否する立場というのが一般的な理解だろう。ベジタリアンが肉や魚を拒む人々であるのに対して、ビーガンは肉・魚のみならず、乳、卵、蜂蜜などの消費も拒み、衣類においても動物性のものを避け、動物実験を経た化粧品や洗剤も利用しない。以上のビーガニズムに対する理解は、間違ってはいない。だが、本書の立場に則れば、この理解はあまりにも皮相的である。
 
ビーガニズムは、単なる食事の実践でもなければ、買い物の際の心掛けでもない。あらゆる搾取と抑圧、それへの加担を許容しない立場であり、人と動物の権利のための運動である。したがってそれは、一つの社会正義の立場であり、社会正義運動に他ならない。
 
ビーガンは通常、動物の権利を支持する。これはおそらく当然である。だがもしビーガニズムが上記のように理解されるならば、つまり文字通りあらゆる搾取と抑圧を許容しない立場として理解されるならば、ビーガンの求めるところは動物の権利の獲得と保証にとどまらない(とどまってはならない)。アニマルライツの書籍としての本書の画期的な点は、「人間の権利」に丸々一章が割かれ、動物に対する抑圧システムの中で、抑圧下にある多くの人々の実態についても詳述されているところである。訳者である井上氏はビーガニズムに「脱搾取」、ビーガンに「脱搾取派」という訳語を当てているが、なんと的確な訳だろうか。
 
本書の記述から、特に紹介しておきたい事項を3点まとめる。第一に、特権性の自覚。第二に、動物の抑圧に組み込まれた人間の抑圧。第三に、連帯に際しての配慮。

 特権性の自覚


我々は普通、自らが享受している特権を意識していない。白人は有色人種に対し、男性は女性に対し、シスジェンダーはトランスジェンダーに対し、健常者は障害者に対し、日本人ならば外国人に対し、高等教育を受けた者はそうでない者に対して、特権を有している。この(認めたくない)特権を自覚すること、そして弁護に回らないことが、社会正義の課題に取り組むための第一歩となる。
 
筆者は白人なので、白人の立場の特権を主に語っている。白人の自分が有色人種の人とビーガニズムの運動を推進しようとする時、相手の独自の文化的な経験や個性を意識できているだろうか、と自問する。自分が新鮮な野菜や果物を購入できるからと言って、誰もがそうできると考えるのは無知であり傲慢である。菜食料理の情報にインターネットで簡単にアクセスできることも特権だし、料理を作る時間を割けることもまた特権だ。何より文字を読めることが特権なのである。筆者の妻、ローレン・オーネラスが言うには、「新鮮な果物や野菜の入手すら叶わない人々を前に、ビーガン食品について語ることは侮辱的となります。この入手の難しさは食の抑圧の一種といえます。食のアパルトヘイトです」※1
 

動物の抑圧に組み込まれた人間の抑圧

動物の抑圧に組み込まれた人間の抑圧として、もっとも象徴的な例は屠殺場で働く労働者の過酷な生活である。Twitterでは、労働者が、屠殺場で牛や豚を虐待するところを捉えた動画が流れてくることが頻繁にある。これから殺される運命にある豚が殴打されている様子を見て、悲痛に満ちた豚の悲鳴を聴くと、我々はどうしようもなく心が痛む。と同時に、虐待行為を働く労働者に対する怒りと憎らしさの感情が沸き上がる。しかし、と筆者は我々に呼びかける。

屠殺ラインで一日八時間、喜んで動物殺しの仕事をこなしたがる人間はいない。業務は重労働で、暴力的で、危険で、反復が多く、そのくせ賃金は少ない。……労働者は防止できるはずの負傷にみまわれ、それは往々にして深刻、時には死に至る。さらに動物を殺すことで、労働者は心的外傷後ストレス障害の症状に似た多数の精神的問題、例えば薬物やアルコールの濫用、抑鬱、不安、妄想症、解離性障害、繰り返す暴力行為の夢などに悩まされる。要するに、屠殺場の労働者に殺す動物を気づかう余裕はない――あるいはそこまでいかずとも、自分の感じる思いやりを形にする余裕はない。

虐待を行う屠殺場労働者への怒りを抑制し、思いやりを寄せるのは、ビーガンにとってもっとも困難なことかもしれない。だが、食肉・家禽産業が膨大な人権侵害を内包するシステムであるということを知ったならどうだろうか。労働者による動物虐待の映像を見て、彼らを悪魔化して吊し上げても、事態は改善しない。もちろんそうした虐待行為を我々は許すことはできない。しかし低賃金で働く移民労働者が逮捕・解雇されても、その産業システムはほとんど痛手を喰わないだろう。

この手の動画で見てきた虐待は容認できず、私も吐き気がする。しかし勇気があるなら、怒って動物を虐げる労働者たちの顔を見てほしい。かれらはほぼ例外なく低賃金の移民労働者である。指示は監督が下し、監督はかれらを侮蔑的に扱う。労働者たちは叱責され、搾取され、脅迫される。
……
労働者の犯す虐待に目をつむれと言う気はない。が、動物の権利運動がかれらを標的にしてその逮捕を喜ぶのは、その方が簡単で、しかも虐待の具体的な犯人(大抵は有色人種)を特定できるからではないかと思う。この人々の搾取を、かれら自身の動物虐待と並べて捉えると、制度化された支配の序列だけでなく、労働者の虐待が動物の虐待を生むという抑圧のサイクルが見えてくる。食品システムの非人道的扱いは長い鎖のように連なり、屠殺場労働者もその一片に組み込まれている。


連帯に際しての配慮


繰り返すが、脱搾取=ビーガニズムはあらゆる抑圧と搾取に断固反対する社会正義の立場である。したがって、人種差別、外国人差別、性差別、障害者差別、セクシャル・マイノリティ差別にも断固反対しなければならない。だが、他の反差別運動との連帯を試みる時、我々は注意深さと気配りを忘れてはならない。他の集団の訴えを安易に流用し、その意味を拡張することは、元の訴えを侮辱することにつながりかねない。
 
2012年、黒人の少年が帰宅中に銃殺され、犯人が無罪になった事件をきっかけに、「黒人の命は大切」と称する運動が始まった。この運動は司法の外で警察や自警団に殺害される黒人に世論の関心を集めた。ほどなくして、動物の権利運動は「すべての命は大切」という標語をSNSで発信した。より大きな包括性を求める意図から発信されたこの標語は、結果的には「黒人の命は大切」の意味を矮小化し(矮小化であると彼らに感じさせ)、少なくない黒人の不快感と反発を買った。
 
種差別を人種差別や性差別と並べてこれらを糾弾するのは、私としてはその論理が誤っているとは思われない。だが、動物が人間より劣ったものとして扱われている現状でのこうした対比は、被差別者に侮辱感を与えることは避けられない※2。何より社会から人間として認められてこなかった、「動物」同然に扱われてきた人々にとってはなおさらである。これは連帯が時期尚早というわけではなくて、被差別者・被抑圧者の歴史を真剣に考えることを怠ってしまうことに問題があるのだろう。
 

さいごに


ビーガニズムは単に衣食の選択の問題ではなく、包括的な「脱搾取」の立場であり、人と動物の権利のための運動である。この認識は、我々の視野を広げこそすれ、狭めることはないだろう。屠殺場での虐待行為の映像は、往々にして労働者への怒りの感情を呼び起こし、労働者の置かれた境遇に対しては目を曇らせる。動物の権利団体の多くは白人男性の指揮下にあるという※3。一部の運動家は、犬食文化のある国の人々に対して「野蛮」という語を使って非難する※4。これらの問題の所在はどこにあるのか。それはビーガニズムを「脱搾取」の実践と捉えた時に明らかになるはずだ。

古い諺では、継続は完成に至る〔継続は力なり〕という。これは新しい学習や楽器の練習には言えるが、脱搾取には当てはまらない。というのも脱搾取に完成はないからである。また、あるべきでもない。脱搾取は完成への誓いではなく、最善を尽くすという約束事である。


※1:ここで明らかなのは、少なくとも夕食の献立をゆっくり考えることができ、買い物の予算もさほど気にすることなく、料理にも時間を割ける人は、ビーガンになれない言い訳はなさそうだという点だ。
※2:かつてリベラル・フェミニズムが動物の権利運動を退けたのも、これが女性の動物視・非人間化につながるとして忌避されたからであった。
※3:運動参加者の女性は時に反種差別の呼びかけのために性差別的なキャンペーンに利用される。
※4:中には外国人に対する露骨な嫌悪を隠さずヘイト発言を厭わないビーガンもいるが、こうした人々は本書の立場ではビーガンとは言えない。

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