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信じることと知覚と身体

【信じることと知覚と身体】

 目の前にリンゴが在る。この目の前のリンゴの存在を「信じる」人はいないだろう。疑う余地なく自明のものとしてリンゴは存在する。疑う余地なく自明のものとして存在するものを「信じる」必要は無い。神の存在を信じている人がいる。なぜ神を信じる必要があるかといえば、神は自明のものではないからで、その存在に「疑いの余地」があるからだ。一方、神を信じない人がいる。この場合、信じないということの意味は二つあって、「神など存在しないのだから、信じる必要がない」という場合と、「神の存在は目の前のリンゴのごとき自明で疑う余地のない事なので信じる必要が無い」という場合とである。

 さて、これはあくまで平山の場合、だけれども、例えば何か仕事をしながら、軽く集中しながら呼吸が深くなりかつ大きな波のようなリズムになってくると、世界の全てに命や意思があるように「知覚」される。それは全く「疑いの余地なく」そのように「知覚」される。目の前のリンゴやコップや棚や植物や床や窓から見える空や、何やら全てに生命や意思があるかのように「知覚」される。その時世界は輝いてみえる。アニミズムの世界感に近いかもしれない。これがアニミズムだとして、だけどこの時平山はアニミズムといいう主義を「信じている」わけではない。完全にそのように知覚しているのだから、信じる必要すらない。信じる信じないということ以前に、その「万物に生命が在るという世界」を知覚する「身体」があるのだ。

 神といっても世界にはいろんな神がいて、一神教やら多神教やら神から派生した天使やら悪魔やら妖怪やら幽霊やら何やらいる。それぞれの神や神に纏わる世界観を「信じている」人がいる。神を知覚する人、例えばこの世界に唯一一つの神を「知覚」する人は、「この世界に唯一一つの神を「知覚」する身体」になっている。幽霊を知覚する人は、「幽霊を知覚する身体」になっている。世界の全てに生命があるかのように知覚する人はそのような身体になっている。身体が多様であるからこそ、神や世界観や知覚も多様なのだ。身体の在り様に正しさなどないからこそ、それぞれの神や世界観や知覚に正しさなど無い。

 神を「信じている」人はたぶん、その神を「知覚」してはいない。「知覚」していないからこそ「信じている」。「信じる」必要が在るのは、「身体」が無いからだ。特定の宗教や宗派、思想や主義を「信じる」のは身体が無いからで、逆にいえば「身体」さえあれば「信じるべき」宗教や思想、主義は必要なくなる。また、信じる必要も無く疑う余地がないのであれば他者に自分の主義や世界観を強制する必要も無い。ひとり密やかにその世界をたのしめば良いからだ。

 平山の身体がアニミズム的である一方、唯一神のようなものを「知覚」しないのはそのような「身体」であるからで、それは平山の身体の傾向や個性だし、その傾向や個性が平山剛志という人格を在らしめている。だが身体が変われば世界の知覚も変わる。それはそれでいい。明日は唯一神を知覚しているかもしれない。ただ身体があり、その傾向ゆえの知覚があり、それゆえの人格がある。身体は神体。信じる者は救われる、のかもしれない。が信じる余地のないほどの身体が在れば、万物はもうすでに救われているのだ。

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