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【瞑想→心理→身体→瞑想→…/神体・心体・身体と「わたし」】

【瞑想→心理→身体→瞑想→…/神体・心体・身体と「わたし」】  いきなり瞑想すると、最初はきもちよくても必ず心理的な壁にぶつかる。思い出したくない過去を思い出したり、克服できないコンプレックスに襲われたりすることになる。だから瞑想には心理療法的な補助が必要となる。心理療法的な何かしらをやっていると最初はいろんなことが理解できてコンプレックスを克服できたりもするけど、心理を突き詰めると心理療法的な思考や働きではどうしよもない領域にぶつかる。その領域とは身体そのもので、心身相関

    • 【感情を感染させないために】

      【感情を感染させないために】  ふだん怒りを抑圧している人の怒りはこちらに感染しやすい。それは怒りだけではなく、悲しみや諦めや絶望も、それが抑圧されたものであればあるほどその感情は感染しやすい。ある人物やある集団の行為を見てそれにとても怒りや悲しみを感じたならば、実はその怒りや悲しみはその人物や集団自身のものであることがままある。本人が感じずに抑圧され行き場のない感情は他者が「感じる」ことになるのだ。  おれは表明する。怒った、悲しい、悔しい、苦しい、痛い、といちいち表明

      • アバンティの本屋が亡くなった

        アバンティの本屋が亡くなった 「アバンティ行ってくる」といえば自分にとってはアバンティの六階にある本屋のことだった。小学校のころに母親に連れてきてもらっていらい何度も何度も通った本屋。イオンモールの大垣書店ができるまではおれが住んでいる東九条地域には大きな本屋は無かった。アバンティの本屋には専門書がたくさんずらっと並んでいて、中学生の頃、背伸びして分かりもしない本を買って読んでいたけど、背伸びするためには背伸びできる環境が必要で、アバンティの本屋はおれにたくさん背伸びさせて

        • 【軽薄さが人を殺す】

          おれはあまりにも酷いことがあっても絶望したり、希死念慮が湧いたりはしないのだけれども、軽薄さに触れてしまうと軽く絶望する。もちろん本当に死なないけど、もういいかな、くらいは軽く思う。  善悪と軽薄さはまたちがう。悪意に触れると嫌な気分にはなるけれど「なんだこのやろー!」と逆に元気が出たり学ぶこともあったりもする。でも一見善いことでも内実が軽薄だとそれに触れただけで軽く落ち込む。元気がなくなる。軽薄な善は悪よりもタチが悪い。承認欲求を満たすため、自分の実績を作りたいがため、小

        【瞑想→心理→身体→瞑想→…/神体・心体・身体と「わたし」】

          【詩と自己実現】

           詩と自己実現とはもっとも遠いところにあるもので、「わたし」が詩に奉仕するならまだしも、詩を使って名を売るとか勝つとか何者かになるというのは詩とは最も遠い営為である。詩と自己実現が結びつくとそれは自己啓発に堕するだろう。もちろん堕するのは詩ではなく「わたし」の方である。詩が詩であるならはそれが堕することは無い。絶対に。自己啓発まがいの行為を詩と称してことばを弄んだ罰は必ず本人に帰って来る。必ずだ。詩は恐ろしい。詩は野に咲く花で、野に咲く花ほどおそろしいものはない。調子にのって

          【詩と自己実現】

          【「わたし」の幸せと身体の幸せ 部分運動と全身運動】

           「わたし」の幸せと身体の幸せは違う。何故違うかというと、「わたし」と身体とは、数万年かけて分裂分断してしまったからだ。「わたし」の幸せとは何かといえば、衣食住が安定しているということは基本にあるのはもちろん、お金がたくさんあるとか、人気があるとか、誰かに勝ったとか、偉い人に認められたとか、社会的に成功したとか、あの山に登れたとか、承認欲求が満たされるとか、…、何にせよ「問題」が→「解決」し→望みの「結果」を「手に入れる」事に尽きる。それは終わりなき欲望の追求と成就のプロセス

          【「わたし」の幸せと身体の幸せ 部分運動と全身運動】

          信じることと知覚と身体

          【信じることと知覚と身体】  目の前にリンゴが在る。この目の前のリンゴの存在を「信じる」人はいないだろう。疑う余地なく自明のものとしてリンゴは存在する。疑う余地なく自明のものとして存在するものを「信じる」必要は無い。神の存在を信じている人がいる。なぜ神を信じる必要があるかといえば、神は自明のものではないからで、その存在に「疑いの余地」があるからだ。一方、神を信じない人がいる。この場合、信じないということの意味は二つあって、「神など存在しないのだから、信じる必要がない」という

          信じることと知覚と身体

          身体のことは身体が決める

           身体のことは身体が決める。「わたし」が身体を支配しようとする時、身体はこわばり「わたし」は硬直する。「わたし」が身体を抑圧する時、身体は歪み「わたし」は崩壊する。「わたし」が全てを決定できるなどいうのは思い上がりと妄想でしかない。身体あっての「わたし」なのだから。身体はどこまでも現実。  身体のことは身体が決める。「社会」が身体を支配しようとする時、身体はこわばり「社会」は硬直する。「社会」が身体を抑圧する時、身体は歪み「社会」は崩壊する。「社会」が全てを決定できるなどいう

          身体のことは身体が決める

          【第31回東九条マダン 終了しました】『虹とグレーゾーンと大地と血』

          【第31回東九条マダン 終了しました】 『虹とグレーゾーンと大地と血』 今回平山は会場内の飾り付けと自分の絵を展示しました。 校舎から長い布を6色垂れ下げて虹に見立てた飾りをしています。校舎の手前のフェンスには白、黒、グレー、赤、青、銀、金の布に生花とドライフラワーを活けました。そして長い布の麓にはミカンとレモンの苗木を置いています。  この飾りは東九条マダンを通して、平山個人ととある東九条で活動する集団との諍いから生まれた飾りです。集団との関わりともなれば諍いがある

          【第31回東九条マダン 終了しました】『虹とグレーゾーンと大地と血』

          【第31回東九条マダンのおしらせ】『呪いと運命と大地と血』

          【第31回東九条マダンのおしらせ】 『呪いと運命と大地と血』 平山の地元のお祭り、東九条マダンが11月3日金曜日(祝)にあります。  平山は曾祖父の代から東九条に住んでいます。東九条は昔から在日韓国朝鮮人が多い地域です。平山自身も在日韓国人ですが、平山は在日であるということよりもこの土地そのものに非常に影響を受けています。平山の数々の表現はこの土地のエネルギーが具現化されたものです。東九条といっても平山は当然その全てを知っているわけでもなく、東九条の中の自身が住む「宇賀

          【第31回東九条マダンのおしらせ】『呪いと運命と大地と血』

          清掃夫と全身運動

          清掃夫と全身運動  私は清掃夫をしている。清掃の仕事といってもいろんな種類があるのだけど、「床に洗剤塗って、機械で洗って、吸水して、モップで拭いて、ワックス塗って床ピカピカ」という工程の清掃がある。例えばモップで床を拭くという作業。一日やっていれば腕はビキビキ、腰はバキバキ、かなり疲れる。なので私はどうすれば疲れないのかを考え、試行錯誤の結果、「部分運動ではなく、全身運動」でモップを振ればいい、という結論に至った。具体的には、体幹を固定して腕だけでモップを振るのではなく、背

          清掃夫と全身運動