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【「わたし」の幸せと身体の幸せ 部分運動と全身運動】

 「わたし」の幸せと身体の幸せは違う。何故違うかというと、「わたし」と身体とは、数万年かけて分裂分断してしまったからだ。「わたし」の幸せとは何かといえば、衣食住が安定しているということは基本にあるのはもちろん、お金がたくさんあるとか、人気があるとか、誰かに勝ったとか、偉い人に認められたとか、社会的に成功したとか、あの山に登れたとか、承認欲求が満たされるとか、…、何にせよ「問題」が→「解決」し→望みの「結果」を「手に入れる」事に尽きる。それは終わりなき欲望の追求と成就のプロセスだ。

 一方身体にとっての幸せとは何かといえば「すべての運動が全身運動になっていること」このことに尽きる。ただそれだけだ。「わたし」にとっての幸せを追求するとたいてい身体は「部分運動」的になる。身体にとっての幸せを追求するとそれは必然、「全身運動」になる。「部分運動」とは「身体の一部を動かすために身体の他の部分を硬直させるような運動の事」である。例えばスマホを手に持って操作しているような運動の事だ。この時身体の両手以外の部分はほぼ硬直しているはずである。特に首肩目の硬直は酷いことになる。それに対して全身運動とは身体のどの部分が動いていても必ず全身が連動して動いているような動きの事である。この時身体のどこにも硬直は無い。例えば直立して身体全体を左に捻ってその反動にまかせて身体を右に捻って返すように左右に振り続けると身体全体が連動しする全身運動になる。全身運動を続けていると何が起こるかというと、理由もなくきもちよく、たのしく、しあわせな感覚になる。時になんの理由もないのに爆笑がおこることすらある。

その時「わたし」がどれだけ辛く悲しくても、全身運動状態になれば身体はたのしくきもちよくしあわせなのだ。逆に言うならば欲望の追求という「部分運動」状態にあるならば身体はとても苦しく不快で不幸だ。「わたし」がいくら社会的に成功していたとしても身体が「部分運動状態」なら身体は不幸なのだ。身体が無ければ「わたし」も存在しえないのだから、「わたし」にとっての幸せと身体にとっての幸せとどちらが大切かといえば身体にとっての幸せの方が大切なのは当然だ。

だけれども、社会は欲望を煽る。つまり社会は「欲望=部分運動」を煽るようになっている。また、社会は「部分運動」をあらゆる身体に強いている。例えばデスクワークで一日中机に座りパソコンを操作するような身体は部分運動の極みだろう。また過剰な礼儀作法というのも「部分運動」の強制である。だから今のところ「全身運動」と「部分運動」は相容れないどころか敵対的な関係ですらある。

おそらく「全身運動」は社会では許容されない。ふざけているとか、馬鹿にしているとか、キモイとすら言われるだろう。だからこそ、社会には異議申し立てと改善の為の「社会運動」が必要なように身体復興のための「全身運動運動」が必要なのだ。それは身体のために、「わたし」自身のために、身体と社会とが調和し共鳴するために。社会的身体ではなく、身体的社会になれば生きづらさなど無くなるだろう。そんな社会は今ここ全てが居場所であるような社会だからだ。

「わたし」は欲望の成就の為に身体を犠牲にし、「わたし」は承認欲求を満たすために身体を傷つけ続けている。そんなアホなことのために「全身運動」によるきもちよさを味わえないのだから「わたし=欲望」は倒錯していると言わざるを得ない。

 「全身運動」するのにカネは必要ないし人気も必要ないしめちゃくちゃ頑張る必要も無い。この身ひとつあれば誰でもできる。病んでいても障害があっても全身運動はできる。「わたし」がどれだけ不幸でも身体はその在り様としてそもそもしあわせなのだ。「わたし=欲望」の追求としての部分運動をできるだけ最小限にして、身体そのもので在るための「全身運動」を静かに炸裂させる。その炸裂が社会化する身体を逆に、身体化する社会へと変える。そうして「わたし」は身体へ帰る。

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