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料理の先生:博士の普通の愛情

あるフレンチレストランで食事を終えたあと、厨房から女性のシェフが出てきた。僕が最後の客だったのでしばらく話したのだが、彼女は20代後半で事務職を辞めて調理師専門学校に入ったという。なぜ、と聞くと興味深い話をしてくれた。

彼女には数年間一緒に暮らした彼がいて、たぶんそのまま結婚するのではないかと思っていたそうだ。しかしある夜、彼から突然の別れを切り出される。喧嘩もしたことがないし、何が原因かがわからなかったので理由をたずねてみた。彼は、「君の料理は美味しくないから」と言った。

彼女は僕の向かいに座ると、ソムリエに頼んで小さな赤ワインのグラスを持って来てもらい、僕らは乾杯した。

確かに外食のとき、彼がワインや料理に詳しいことは感じていた。私が家で作る料理は凝ったものではなく、家庭的であり合わせのものが多かったこともわかる。でもそんなに美味しくなかったんだろうか。事態を飲み込めていない私に彼はさらに言う。

「料理だけじゃないんだ。僕は君の審美眼のなさが好きじゃない。美味しい料理を食べたら、自分の料理がまずいことはわかるだろう。いい音楽を聴けば、自分には音楽の才能がないことがわかるだろう。君に足りないのはそこなんだよ。僕は子どもを作ったとき、質の悪いものを食べさせたくない。それは教養の問題だから音楽でもなんでも同じなんだ」

思ってもいなかった「全人格否定」が待っていた。

彼と別れて数ヶ月した頃、まだ生々しい失意の中にいた私に「親切な」友人が教えてくれた。彼は今、シェフの女性とつきあっているようだと。そのとき私の精神は一度崩壊したように感じ、でもなぜか不思議とやる気が起こってくるのも感じた。

「馬鹿馬鹿しいと思われるでしょうけど、それで料理の勉強を始めたんです」

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あまり考えもせず適当に選んだ学校の先生は素晴らしい人だった。料理なんてただレシピを憶えればいいくらいに思っていたけれど、彼女はそうじゃないことを教えてくれた。季節の食材、健康という科学、料理を引き立てる皿、郷土料理が持っている文化の大切さなど、彼女の授業はいちいちあの日の夜に言われた彼の言葉を裏付けるものだった。内容はきわめて論理的だったが、60代の彼女は江戸っ子のような話し方でバランス感覚がとても優れていた。

「料理っていうのはさ、そのときに食べたくなるものがカラダが求めてる答なのよ。疲れてるとか、鉄分が足りていないとか、そういうことを脳じゃなくて味覚が信号として教えてくれるんだよ。理屈じゃないの」

私は料理というものを何も知らなかった。彼女の授業は生活全般にまで及んでいく。

「あなた、さっき駐車場で会ったけどプリウスに乗ってるのね」

生徒のひとりに話しかける。何の話を始めるのかと思った。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。