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リセットの習慣:Anizine

自分がゲームにはまらなかった理由を考えていました。すると、ゲームが好きな人と話が合わない理由も正確に把握できました。

私たちが若い頃に触れられたゲームは、あまりにも原始的なものでした。四角いピクセルを打ち返すだけの『テニスゲーム』や『スペースインベーダー』などです。もちろん画面はモノクロでした。私たちは近所に住んでいて親が甘いので何でも買ってもらえる「オリバー」という友人の家で、当時は最新のテレビゲームをしていました。馬鹿な子どものことですから、そういう新しい玩具にはのめり込みます。放課後に彼の家に集まっては、飽きずに貧弱なゲームをやったものです。

高校生のとき、親に内緒でアルバイトをしたことがあります。簡単な作業でしたがお金をもらって働くという社会性を帯びた体験は楽しかったのをおぼえています。そのアルバイトの帰り道、一緒に働いていた友人とゲームセンターに寄って、インベーダーゲームをするのが日課でした。かなりのゲーム数をやって帰途につくと、一日働いたのと同じくらいの金額を使っていることがわかりました。

ちょっと大げさな言い方ではありますが、労働と消費の不毛さに気づいてしまいました。「あれ、俺たちは何のために働いているんだっけ」と。

私たちはやや冷静な子どもだったこともあり、帰りにゲームセンターに寄るのはやめました。しかし疑問は続きます。では、働いて無駄遣いをしないことはどういうことなのか。親から小遣いをもらっていたのでお金に困っているわけではない、貯金する気もないし、でも単なる無駄遣いは馬鹿馬鹿しい。何となく「経済の構造」みたいな部分で立ち往生してしまったのです。アルバイトは社会に触れたような気がしていい経験だったのですが、目標や意義のないことは長続きしません。アルバイトは夏休みと同時に終わりました。

それから時間が経って、テレビゲームはどんどん進化しましたが、あの時の記憶があったのか、まるで興味が持てませんでした。その理由は「誰かが意図的にプログラミングしたものに踊らされても、そこには何もない」と感じてしまっていたからかもしれません。プログラムの中には破綻も含まれています。しかし「隠しコマンド」などの発見に一喜一憂しても、それはあらかじめ仕込まれたものであり、造物主には決して勝てないわけです。その手のひらの上で踊っていることに虚無を感じたのが、あの夏休みに得た教訓だったのでしょう。

ゲームという世界観に浸る人の言葉を聞くと、どこかに幼稚さを感じることがあります。自分が考えたことがプログラム通りに動くことを万能感と勘違いするタイプの人と出会うと、だいたいいつも同じ感想を持ちます。ここから先はデリケートな部分なので、袋とじにします。

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Anizine

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。