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9割の他人:写真の部屋 (無料記事)

今年もよろしくお願いいたします。

写真って、9割近くは「写っているモノ」で決まってしまいます。そこに花が咲いていた、馬がいた、クラシックカーがあった、なんていうのを見つけて撮るわけで、そこには自分の手柄なんてありません。ただ、出会ったモノを撮らせてもらうのみです。

数年前に書店で、ある著名な写真家の写真集をパラパラ見ながら話しているカップルがいました。男性は写真をやっているようで、彼女にその本を見せながら「俺、次の個展はこの人みたいに撮ろうと思ってるんだよね」と言ったのです。彼は表現者としてはダメだと思うし、彼女にもし恋愛相談をされるのなら、そんな彼とは別れた方がいいと助言します。

被写体の目の前にいた人がたまたま「自分」なら、自分の1割の個性を発揮して撮り方を決める。つまり、自分ですべきことはたったの1割だから、そこに「自分ではないもの」を介在させてしまうのは勿体ないんですよね。

表現というものを乱暴に定義すれば、「自分以外が介在せずにできあがったもの」と言えるかもしれません。創造は孤独です。集団ではできない。映画監督がワンマンだと言われるのは、関わる人が多くても決定権は一人が持っていなければいけないからです。これが学園祭や友だちの結婚式の余興とは違うところです。

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「私はピカソのアシスタントをしていました」と名乗られても、その人の絵が欲しい人なんていう人はいないでしょう。創作の価値は個人の名前にあるのです。映画や舞台などはプロダクション形式ですけど、それでもスタンリー・キューブリックの映画はスゴいと言われ、ピナ・バウシュは素晴らしい、と、全責任は一人に集約されています。

映画や演劇をさっきの写真に置き換えると、演じる役者のウェイトが9割ということになります。画面に映り、舞台で踊るのはパフォーマーだからです。ただ、ジャック・ニコルソンの演技がいくら素晴らしくても、その世界を創造したのはキューブリックで、彼らは手のひらの上で釈迦のコントロール下で動いている。だからキューブリックはスゴい、という評価になります。

そして、10割を創造する能力がありつつ、俳優に9割を任せている部分にも注目してください。1割のコントロールで9割をも制御するのです。絵を描く作業は10割を自分の筆で描き、10割の世界観を作り出す仕事ですが、写真は9割の「あるがまま」をいったんは受け入れなくてはいけない。ここが重要なんですね。

というような話をある演出家志望の若者にしたら「キューブリックもピナ・バウシュという人も知りません」と言われました。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。