見出し画像

瓦礫ではない:写真の部屋

時間がかかってできるカタチ。

それは写真を撮りたい気持ちを引きつけますね。俺は「レトロ」という表現が好きではなくて、それは古くなったことをただ珍しがっているように感じるからです。古い電気店の看板とか、大昔の蓄音機とか。

それらは生まれたときには最先端であったはずなんです。自分が古くなったあとに面白がられることをよしとはしていないと思います。たとえば「iPhone12だ、レトロ〜」と数十年後に言われるかもしれませんよね。

時間がかかって生まれるカタチに価値があるのは、意志を感じないところなのかもしれないなあと考えました。まだ考えがまとまってはいないんですが大ざっぱに言えば「サブカル的ではない」というところでしょうか。

その時代の風俗を時代遅れになったからと言って笑うような姿勢には賛同できません。それはただ時代が進んだだけで、後から生まれた人の手柄でも優越でもあり得ません。

画像1

気が遠くなるほど長い時間、川がずっと流れ、大地を削ったことによってできたグランド・キャニオンは面白いでしょう。それは100年前でも去年でも同じように雄大な面白さを提供しているんだと思います。それと「閉鎖されて廃墟になった遊園地」とは違います。遊園地は本来、人々が楽しく遊ぶ場所だったはずですが、理想が断絶したわけです。その寂れ具合が面白いというのはちょっと違うかなと思います。

俺は東日本大震災のあとに被害の大きかった場所をいくつか訪れました。そこには崩れた家がたくさんあって、つい最近まで人が暮らしていたとは思えなかった風景でした。

東京に戻ってから自分が辿った道をGoogleのストリートビューで見てみました。小学校があり、文房具屋があり、アパートがあり、びっしり建物が建っていました。俺が見たところ、写真を撮ったところはだだっ広い場所に瓦礫だらけだったのに、です。ある被災者の悲痛な言葉を読んだことがあります。

「私たち家族が数ヶ月前まで大切に使っていた箪笥やクルマや服や人形を『瓦礫』と呼ばないで欲しい」というものでした。これには涙が出ました。俺はできるだけ落ちているものを踏まないように歩きましたが、本当にたくさんのプリクラとか人形とか、服を見ました。これは誰かが大事にしていたものだと思いながら。

しかしそこである衝撃的なネットの書き込みを見ました。これが写真に写すべき、時間の流れや朽ちてしまったもの、レトロや廃墟を面白がる人々の考えを象徴していると理解しました。

ここから先は

385字

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。