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浴衣の志摩子:博士の普通の愛情

犯人が捕まらない犯罪というのがある。僕は25歳の頃にしでかした愚かな過ちを「なかったこと」にできた幸運なひとりだ。就職もせず、ときどきアルバイトをすることはあったがほとんど毎日パチスロばかりしていた。

金がなくなったので銀行のATMでなけなしの数千円をおろしに行ったとき、となりで80代くらいのおばあさんが操作に困っているのに気づいた。助けを求めるような目でこちらを見るので、画面のそこを押すんですよ、と教えた。

「ありがとう。助かったわ」

おばあさんは50万円を銀行の封筒に入れながらそう言った。ATMでは50万円しかおろせないので、数軒先にある別の銀行に行くのだと独り言のようにつぶやいた。僕は一緒に外に出ておばあさんと並んで歩く。

「こっちの銀行も操作は同じかしら」
「だいたい同じだと思うけど、ちょっと違うかも」

銀行の前で不安そうな顔をしているおばあさんにつきあうことにした。次もおばあさんは50万円をおろし、さっきの封筒にまとめてしまいこんだ。

「今は憶えてるけど、また来月に来る頃には操作を忘れちゃうのよね」

銀行を出るとおばあさんは、家が目の前のマンションだからお茶でも飲んでいかないかと言う。僕はもしかしたらいくらかのお礼がもらえるのではないかという卑しい下心があったのでマンションについていくことにした。

マンションのエントランスは立派だったが、かなり薄暗い。部屋は2階だから階段で行くわよ、とおばあさんは言う。健康のためにできるだけ歩くようにしているそうだ。部屋は線香の匂いがして、田舎の親戚の家を思い出す。

「あら、停電だったのね」

電気ポットのランプが消えているのを見て、おばあさんはやれやれといった顔でやかんで湯を沸かす。仏壇の引き出しに銀行の封筒をしまってから、僕の分だけ羊羹とお茶を出してくれた。本当にお茶だけなのかな。期待していたのだが。

いれてくれたお茶に手を出そうとしたその瞬間、どさっという音がしておばあさんがキッチンに倒れたのが見えた。何かの発作のようだった。足をばたつかせ喉をかきむしり、真っ赤になった顔が歪んでいる。突然のことで僕はどうしていいかわからなかったが、まずは救急車だと思った。

思ったのだが、仏壇の中の100万円のことを思い出した。金を持ってここから立ち去る方法もあるよな、と邪悪な自分が言う。当時の僕の頭はパチスロに支配されていたのだ。我に返ったとき、僕は自分のアパートの部屋で銀行の封筒を握りしめていた。金を持って来てしまった。警察に捕まるかもしれない。それから数日、警察が僕のところに来ることはなくネットニュースにちいさな記事が載った。

「ひとり暮らしの女性が孤独死。死因に不審な点はなく、部屋も荒らされた形跡はない。死亡推定時刻にマンションが停電だったために防犯カメラが作動しておらず、部屋に出入りした人物は確認できず」

と書かれていた。おばあさんはあのまま亡くなったのか。僕が救急車を呼んでいたら助かっていたかもしれない。しかし生きていたら100万円がなくなったことを警察に言っただろう。銀行の防犯カメラにはふたつのATMで僕らが一緒にいる姿が残っているはずだし救急車を呼んだ事実も残る。こうして僕はいくつかの幸運のおかげで罪をまぬがれたのだ。

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怠惰な生活を送ってきたが、自分では生来の悪人ではないと思っている。おばあさんの死を知ったことがきっかけで、それからは心を入れ替えて真面目に働き出した。充実感のある毎日がいつしかあのことを忘れさせていた。

友人が合コンに誘ってくれて、ひとつ年下の「リカ」という女性と知り合った。何度かデートをして彼女の誕生日のタイミングでホテルを予約した。僕は彼女とこれからうまくいくような気がしていて、安っぽい言葉で言えば「運命の人」なんじゃないかと感じた。ホテルのレストランで食事をしてから部屋で誕生日を祝ってお酒を飲み、夜を迎えた。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。